石垣・宮古の「歴史」観光スポット(全23件)
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海底遺跡
新川鼻沖の海底にあるダイビングポイント。古代人工物の可能性があり、専門家の調査が進められている注目のスポット。ダイビングやシュノーケリング、水中観光船、グラスボートで見学可能。
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日本最南端の碑
東経123度47分、北緯24度2分。有人島としては日本最南端にある波照間島の高那海岸に建てられたモニュメント。断崖絶壁が1km近くも続く高那崎のダイナミックな絶景が見渡せる。
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唐人墓
19世紀中頃、アメリカへ向かう中国人労働者が石垣島で処刑された (バウン号事件)。中国人苦力(クーリー)の慰霊のため、昭和46(1971)年に建立された鮮やかな色彩と見事な細工が目を引く。
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漲水御嶽
宮古島創世の神話にまつわる拝所。古い石垣に囲まれた祠には「古意角(こいつの)」と「姑意玉(こいたま)」の男女2神がまつられ、島の守護神として信仰されている。
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宮良殿内
19世紀初頭、宮良当演が八重山の頭職に就いたときに建てた住宅。首里の士族屋敷を模した邸宅で、当時の沖縄建築様式を伝承する建造物として国の重要文化財に指定されている。
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盛加井
水道の発達する以前に人々の生活を支えた水源。大きな洞には貝塚が残り、土器なども発見されていることから、古くからここを中心に集落が形成されていたと見られている。
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人頭税石
薩摩藩の侵略で宮古・八重山地方に課せられた人頭税の賦計り石(ぶばかりいし)。15歳から50歳の男女を対象にしたが、背丈がこの石の高さを超えたら課税されたという伝承も残る。
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あとんま墓
18世紀頃、平良の頭職を勤めた忠導氏一族の継室(アトンマ)を葬ったことからアトンマ墓と呼ばれる。正妻と同じ墓に葬ることのできなかった後妻の霊を弔ったもの。
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燐鉱石貯蔵庫跡
島の西端、西港のすぐ近くにある。大正7(1918)年から昭和19(1944)年頃まで盛んだった鉱採掘事業で使用されていた、燐鉱石を貯蔵する建物。
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知利真良豊見親の墓
仲宗根豊見親の三男でオヤケアカハチの乱に父とともに従軍し、その後八重山頭職となった知利真良豊見親を葬った墓。
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ウプメーカー
島の開拓者・土原豊見親春源(うんたばるとぅみやしゅんげん)の偉業を称えて造られた石造墳墓。多良間島の代表的な石墓であり、宮古五大墳墓の一つに数えられる。
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黒浜御嶽
亜熱帯の植物群落に囲まれた御嶽(うたき)。島の人々の生活に根ざした信仰の場となっている。周辺の植生は砂地に生息する植物群落として貴重。
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大東神社
八丈島の文化が色濃く残された神社。毎年9月22〜23日には奉納相撲や山車でにぎわう大東神社祭が行われる。
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桃林寺・権現堂
薩摩藩の進言により建立した臨済宗の寺。仁王像は沖縄最古の木彫像。隣接の権現堂は明和8(1771)年の大津波で壊滅後再建した。沖縄最古の木造建築で国の重要文化財。
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上比屋山遺跡
14、15世紀ごろの集落跡。倭寇の根拠地であったとする説や海外貿易の中継地であったとする説などがある。宮古島産の土器や中国製の陶磁器が散在している。
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玉置半右衛門記念碑
無人島だった南大東島の開拓に成功した玉置半衛門を讃える碑。南大東島役場から徒歩約15分。静かな森の中にある。
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仲宗根豊見親の墓
15世紀から16世紀にかけて宮古島を支配した仲宗根豊見親が、父を弔うために建造した墓。独特の「ミャーカ」と呼ばれる巨石墓の様式と沖縄本島の横穴式の設計を併せもつ。
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オヤケアカハチの碑
15世紀末に八重山地方を統治し、1500年に首里への貢納を拒絶して反乱を起こした按司(豪族)オヤケアカハチを讃えた石碑。波照間出身と伝えられるアカハチの生家跡に建っている。
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久松五勇士顕彰碑
日露戦争時、ロシアのバルチック艦隊が日本本土に向かうのを発見し、通信施設のある石垣島までサバニ(くり船)で渡り、連合艦隊にその事実を打電した島民を讃える碑である。
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世持御嶽
竹富島最大の行事、種子取祭が行われる神聖な場所。弥勒奉安殿(みろくほうあんでん)には五穀豊穣と幸福をもたらす弥勒神の面が安置されている。
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ドイツ皇帝博愛記念碑
明治6(1873)年に宮国村の沖合で座礁したドイツ商船の乗組員を救出した島民の、勇気と博愛の精神をたたえる碑。ドイツ皇帝ウィルヘルム1世の命により建立された。
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西塘御嶽
首里王府に仕え、首里城の城壁設計などの功で頭職に任ぜられ八重山を統治した島の偉人、西塘を祀る御嶽(拝所)。緑の木々を背に赤瓦屋根が美しい祠が立つ。
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大和井
1720年に掘られたものとされる井戸。その構造から首里王府から派遣された高等役人や薩摩藩から派遣された役人専用のものであったと考えられている。国の重要文化財。