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全国の「京都市」に関する観光スポット793件を紹介!
天正18年に建立され、油をかけて祈願すると願いが叶うという油懸地蔵で有名です。寺田屋から徒歩5分足らずの場所にあり、寺田屋で襲撃された龍馬と三吉がこの地蔵に身を潜めたという伝説が残ります。龍馬史跡巡りのついでに願い事をしてみては。
寺田屋を脱出した龍馬と三吉が身を潜めたのが濠川沿いの材木納屋です。寺田屋からは徒歩7-8分。龍馬は左右の指を負傷し、ここで動けなくなりました。お龍と三吉が相次いで伏見薩摩藩邸に急報。龍馬は船で救出されます。現在は酒造会社になっています。
竹田街道を北上して徒歩15分ほど。濠川沿いに伏見薩摩藩邸跡がポツリとあります。寺田屋事件の際は、留守を守る大山彦八が藩邸前の濠川を藩旗を立てた船で下り龍馬救出へと向かいました。材木納屋の前の川と繋がっている点に注目です。
父・楢崎将作が亡くなった後、お龍が奉公に出ていたのが「扇岩」です。東本願寺の東側・高瀬川正面辺りにありました。現在は旧七条新地跡として面影を残しています。ちなみに母・貞が住み込みで働いた河原屋五兵衛の隠居所は鴨川を挟んですぐ。
元治元年(1864)頃、龍馬、中岡慎太郎、望月亀弥太ら土佐藩士たちの居住地となっていたのが南大門の南・大仏南門通にあった河原屋五兵衛の隠居所です。ここに賄いとして住み込みで働いていたのがお龍の母・貞。ここで龍馬とお龍は出会いました。
文久3年(1863)8月18日の政変で京都から撤退した長州藩が再度上洛し、復権を図った「禁門の変」の激戦地です。長州の久坂玄瑞らがここで命を落とし、その後の長州征伐へと流れが続きます。京都御所の西側にあり門には今なお当時の銃跡が残ります!
京都御所の東側、旧三条家邸宅跡に三条実万・実美親子が祀られています。いわゆる実美は急進派の七卿の1人でその中心人物でもありました。龍馬も大宰府で実美と会い、薩長同盟を説いています。現在は萩の名所としても知られています。
慶応2年(1866)薩長同盟未締結を知った龍馬が怒り心頭で寺田屋から駆けつけたのが西郷がいたこちら。また寺田屋襲撃後の龍馬が伏見藩邸から担ぎ込まれたのもここになります。その規模は約9,000㎡もあったとか。現在は同志社大学が建っています。
お龍は天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生後、家族と共にこの地に長く住みました。父・将作は梅田雲浜らと親交があり、尊皇派の交流の場だった可能性もあります。お龍は父の在世中は良家のお嬢様として家事をせず、華道、茶道などに専念しました。
お龍が文久2年(1862)の父の死後、家族と移り住んだのが木屋町の家。お龍が大坂から妹光枝を連れ戻したのはこの時のエピソード。後にお龍は「扇岩」に、母と妹君江は南大門南の河原屋五兵衛の隠居所に住み込みで働き、その縁で龍馬と出逢います!
吉田東洋暗殺後、藩の実権を握った武市半平太が京都留守居役となって住んだのが木屋町高瀬側沿いの料亭「丹虎」。龍馬より早く脱藩した吉村寅太郎も隣に居を構えるも、武市は藩主山内容堂に命じられ帰国後、切腹。吉村も天誅組の変で戦死します。
元治元年(1864)6月5日、新選組は旅籠・池田屋に踏み込み、吉田稔麿、宮部鼎蔵、望月亀弥太ら過激派の尊皇攘夷志士たちを討ち取り、京都を震撼させました。現在は同名の居酒屋が建ち、新選組ファンが集います。
近江郷士・古高俊太郎が営む桝屋があったのはここ。志士たちを援助するも新選組に捕らえられ、武器弾薬を発見されました。それをきっかけに池田屋騒動が起こり、多くの志士が犠牲になりました。現在は昭和7年創業の「志る幸」が幕末の雰囲気を伝えます。
勝、龍馬も学んだ佐久間象山は、門弟・吉田松陰密航事件による連座蟄居後、元治元年(1864)に一橋慶喜に招かれ、公武合体論と開国論を説きました。しかし共も連れずに木屋町を歩き、尊皇攘夷派により暗殺。碑の大きさから佐久間の影響力が伝わります。
長州屋敷の東に、桂と芸妓・幾松の寓居がありました。現在は料理旅館ですが、敵の襲撃に備えた抜け穴や吊天井が当時のままに!長州の京都撤退後、乞食に扮して情報収集を行う桂とそれを支えた幾松は明治後結婚。2人の愛の物語は有名です。
木屋町通、御池通の北に幕末の火薬庫・長州藩の京都藩邸がありました。尊皇攘夷派の中心地であるも元治元年(1864)の禁門の変後、自らの火でその役目を終えます。現在は京都ホテルオークラが建ち、桂小五郎像と長州屋敷跡の碑が建っています。
京都最重要史跡の一つ!文久3年(1863)1月、久坂玄瑞、武市半平太らが集い、続く6月に桂小五郎、真木和泉ら各藩代表が集まり攘夷を話し合った「翠紅館会議」の舞台です。現在は料亭「京大和」となっており、運が良ければ同じ場所で京懐石が楽しめます。
元治元年(1864)8月初旬、龍馬とお龍が「内祝言」を挙げたのがここ。お龍の亡父・楢崎将作が青蓮院宮仕えの医師という縁で、住職智息院が仲人を務めました。しかし禁門の変直後の激動期で龍馬は東西奔走中。お龍は寺田屋に預けられ別居生活でした。
清水寺へと向かう産寧坂、多くの観光客が通るこの場所に、龍馬の定宿の一つ明保野亭があります。龍馬のみならず幕末の志士御用達の料亭でもあり、池田屋残党狩りに新選組が踏み込んだ「明保野亭事件」でも有名。龍馬御前はボリューム満点です!
龍馬の暗殺犯と考えられた紀州藩士・三浦休太郎を、海援隊士・陸奥陽之助や十津川郷士・中井庄五郎らが襲った場所。三浦は難を逃れ、襲った中井は護衛の新選組により斬殺されてしまいます。近くの宇治茶の美好園さんが当時の建物の面影を残しています。
東本願寺の別邸。龍馬が大政奉還の大儀を説くため、大目付・永井尚志と会ったのが枳殻邸と言われています。3代家光により寄進された東本願寺の境内です。池泉回遊式の美しい庭園があり、14代家茂、15代慶喜、松平春嶽らも訪れています。
慶応3年12月9日、王政復古後初の会議が小御所で行われ、倒幕派の暗躍により徳川家に辞官と領地返上を命じることを決定。戊辰戦争へと流れは続きます。残念ながら建物は昭和29年に消失、再建されたものですが、この空気感は是非体験してみて下さい!
先進的すぎる余りに自藩から疎まれるも、松平春嶽の政治顧問として活躍、私塾「四時軒」にて人材を育てた横井。龍馬の思想的な先生でもあり、龍馬の新政府構想でも参議となっていましたが、維新後に惜しくもこの地で保守派に殺されました。
徳川慶喜が在京した40藩の前で、土佐藩の建白書を受け入れ大政を奉還したのが二の丸御殿大広間。慶応3年10月13日のこと。用いられざる時には死を覚悟して登城する後藤象二郎に対し、龍馬は海援隊で決起し切り込む覚悟を記した檄文を書いています。
二条城の目の前、「京都国際ホテル」の辺りが越前福井藩邸の跡。龍馬は幕府の政治総裁職として多忙な日々を送っていた藩主・松平春嶽にアポなしで会いに行き、海防策の意見を求めたとか。それにしても脱藩浪人で藩主に会ってしまう龍馬に脱帽です!
京都を追われ続けた桂が近衛邸を買い取って京に別邸を持ったのは明治2年のこと。明治10年、桂はこの屋敷で病に倒れ、明治天皇の見舞いを受けますが、1週間後に息を引き取ります。当時の建物が「職員会館かもがわ」にて保存されています。必見です!
陸援隊隊長で、龍馬以上に薩摩・長州の和解に尽力した中岡慎太郎は、龍馬がいた近江屋とは河原町通りを挟んで向かい、土佐藩御用達の書林・菊屋の鹿野安兵衛宅に隠れていました。現在はお店の前にひっそりと石碑が立っています。
慶応3年11月15日夜、龍馬が使い走りの峰吉に大好物の軍鶏を買いに行かせたのがこの辺り。「鳥新」は高瀬川に架かる四条小橋の角にありました。待たされた峰吉が戻ってみると既に惨劇の後でした。明治後、「鳥新」は縄手四条上ルに移転し、現在に至ります。
龍馬が暗殺された現場に残されていた2足の下駄のうちの片方が「二軒茶屋中村屋」。創業450年になる老舗で、幕末には多くの志士が訪れました。明治後に「中村楼」と改称。現在は料亭として営業しながら、表では茶屋として名物の豆腐田楽が味わえます。
翠紅館の裏手に竹に覆われたひっそりとした石畳の道があります。観光客も滅多に通らない正法寺へと向かうこの道は、慶応3年11月18日、海援隊士や陸援隊士らによる龍馬と慎太郎の葬列が通った道。いつの頃からか龍馬坂と言われるようになりました。
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