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皇居東御苑 つぶやき・クチコミ

エリア
東京都千代田区
ジャンル
見る - 文化施設 - 庭園

徳川将軍家の居城であった当時の面影をのこし、現在は旧江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部を皇居東御苑として一般に公開。また1年を通して苑内のいたる所で季節の草花を見られる。

皇居東御苑のつぶやき

「皇居東御苑」でつぶやかれたTwitterのツイートを掲載しています。

皇居東御苑のクチコミ

東京駅

重要文化財に登録された赤レンガ建物の東京駅。 オランダのアムステルダム中央駅をモデルとして大正3年に完成されました。その後、戦争により多くの部分を失いましたが、2011年へ向けて全貌を復活させるプロジェクトが始まりました。 駅に問い合わせなどする時は、JR東日本の東京駅なのか、JR東海の東京駅なのか、東京メトロの東京駅なのか調べておくとわかり易いです。 ★東京駅及び近辺には下記の観光スポットがあります。 東京ステーションギャラリー、東京国際フォーラム、丸ビル、大手町カフェ、八重洲地下街簡易郵便局、東京駅地下一番街、新丸ビル、ブリジストン美術館、八重洲地下街,GranTokyo North Tower グラントウキョウノースタワー、グラントウキョウサウスタワー Gran Tokyo SOUTH TOWER、GranSta グランスタ、GranAge グランアージュ、皇居、皇居東御苑、江戸城、相田みつを美術館、

スペースシンカ さん (投稿日 09-12-20)

皇居東御苑

 一般人にも開放されている皇居の庭園です。  まず、門のところで守衛さんからプラスチック製の整理券?らしきものをうけとります。これは帰るときに門のところで守衛さんに返すようになっているのでくれぐれもなくさないよう・・・  出入り可能な門は,大手門・平川門・北桔橋門。  http://www.kunaicho.go.jp/11/d11-03gr.html←略図  中は皇居の庭園というよりも江戸城の遺構といったほうがふさわしいです。現在は宮内庁管轄ということだけあって、皇宮警察の方が時折自転車で回っています。    まず、江戸城の天守閣の跡の石垣だけが残っています。 江戸時代に火災で全焼したあと再建されることがなかったということです。  天守閣は残っていませんが、富士見櫓がプチ天守閣のようなつくりです。  本丸跡はそのままだだっ広い芝生になってます。 「松の廊下」のあった場所はちょっとした松並木になってました。  そのほか立派な石垣が随所に残っていたり、侍の詰め所が残っているのが見られます。  売店兼休憩所では皇室グッズなどが販売されてます。自販機やイスなどもあってくつろぐことができました。大嘗祭の模型がありました。  トイレも敷地内に何箇所かありました。  江戸城は風水上で最高の土地に建てられたというので、パワースポットとしても興味深いです。

スペースシンカ さん (投稿日 08-05-24)

江戸城

【江戸城】東京都千代田区 2008/05/17登城(No128)  天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征討後、後北条氏旧領の関東6州を与えられ、駿府から転封した徳川家康が、同年8月に入城し居城とした。当初は太田道灌築城のままの姿を残した比較的小規模な簡素な城であった。当初家康は小田原に本城を置くつもりであったが秀吉に江戸を勧められたといわれる。広い平野を後背地に持ち、水運に便利な大河、海にも近く良港があり、なによりも巨城を築ける台地がある。そう大坂(阪)に似ているのである、ただ秀吉はまだ何もない江戸なら追いつけはしないと考えていただろう。  元は3つの郭があり、二つの郭を一つの郭にした本丸を造り、二の丸に加え、西の丸、三の丸、吹上、北の丸を新たに築いた。ただ石垣はなく土塁中心の粗末な造りだった。  慶長8年(1603)に徳川家康が江戸に幕府を開いて以降は天下普請による江戸城の拡張に着手し、壮大な石垣を築き、大きな天守台に壮麗な5層の天守をあげ、周囲16kmにおよぶ大城郭となった。それだけでは終わらない、大名屋敷、侍屋敷、町屋を造らなければならない。お茶の水の山を削り、広大な武家地を確保し、その土砂で八重洲、銀座、築地が埋め立てられ町屋とした。  秀忠、家光とつづき総構えが完成をみたのは寛永13年(1636)といわれる。寛永15年(1638)に築き直された天守は5層6階、金鯱、金瓦で、壁面は銅板で飾られ黄金色に輝いていたという。明暦3年(1657)振り袖火事で天守をはじめ城内、江戸市中ほとんどが灰燼に帰した。以後天守は再建されなかったが、市中は新たな計画により再建され人口100万を超える世界最大の都市に発展する。本丸の建物は文久3年(1863)火災で焼失したまま再建されず、西の丸に機能が移された。  無血開城された明治初期には70の櫓、120余りの城門があったが、皇城となり順次解体され、関東大震災、戦争でほとんどが失われた。  現在、本丸、二の丸が皇居東御苑として入れる。本丸跡はとにかく広い、天守台も大きい。本丸は何もない、松の廊下跡、富士見多聞、富士見櫓をみることができるが、皇居側からみることができないので景観はよくない。二の丸は庭園となっており、白鳥濠ごし、汐見坂あたりからみる本丸の高石垣はみごと。石垣は美しい切込ハギがほとんどで、天守台内側に打込ハギもみられる。  重文は桜田門、田安門、清水門。大手門などは再建されたもの。 <交通>大手門には東京駅丸の内から歩10分、地下鉄大手町駅から5〜10分。平川門には地下鉄東西線竹橋駅から歩5分。 <写真左>大手濠、大手門あたり <写真中>巨大な天守台 <写真右>汐見坂から本丸高石垣、白鳥濠

kenken0418 さん (投稿日 08-05-17)

江戸城 無血開城

今大人気のNHK大河ドラマ「篤姫」。 彼女は無血開城に大きな役割を果たして居ます。 ご存知の通り、篤姫は薩摩の出身。 薩摩藩は官軍となり、鳥羽伏見の戦いで破れ、「賊軍」となった「旧幕府軍」を攻撃しようとしていました。 西郷隆盛は徹底的に血で血を洗うような手段で江戸城を手中に収めようとしていたようです。 西郷は篤姫が将軍・家定に嫁いだ後、篤姫の大奥での生活ぶりを監視していました。 篤姫は家定の死後 出家して天璋院となり、徳川家の行く末を心配していました。 ついに慶應4年2月9日 官軍が正式に結成され江戸に総攻撃を掛ける為京を出発しました。 江戸でも全面戦争の噂が広がり、天璋院は家臣たちに江戸を去るよう言われます。 しかし彼女は江戸城に残り 西郷に宛てて次ぎのような書状を書きました。 「私は女で無力ではありますが 徳川に嫁ぎました以上は徳川の土となりこの家が安全に永らえる事を願ってやみません。 悲観の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます。」 静かな手紙ですがこの中には 「江戸城を何が何でも攻撃するつもりなら薩摩出身の私を殺す覚悟でやりなさい」と言う天璋院の強い信念と 薩摩にたいして平和的に解決すべきであると言う事を伝えたのです。 この手紙が西郷の心に響いた・・・と考えられているそうです。 その他 宮中から徳川に嫁いだ「和宮」も手紙を官軍の指揮官に直接送っています。それも江戸城無血開城の力になったはずです。 まだ横浜のイギリス人 パークスからも滞在している外国人の命を守るため江戸総攻撃を見合わせる様 国際法を楯にしての申しでも有りました。 ここでは記しませんがあの「近藤勇」もどうやら一役買ったようです。 こうして江戸城は平和的に開け渡されたそうですよ。

ニャンコミーナ さん (投稿日 08-09-26)

歴史感じる駅

東京駅を利用したことのある人は多くいると思います。 しかし、東京駅を外から見たことある人って少ないと思います。 想像していたより、歴史を感じました。 一度外から見てください。

カルビロース さん (投稿日 08-06-27)

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