新河岸川のつぶやき
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新河岸川のクチコミ
川越城跡
【川越城跡】埼玉県川越市郭町 2003/01/03登城(No14)2008/06/07再登城 長禄元年(1457)河越(川越)城は扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏が家老の太田道灌に命じて、足利氏に対抗するため築かせた。大永5年(1525)北条氏綱が扇谷上杉氏の河越城を攻略、北条氏が武蔵国支配の拠点としていく。 氏綱没後、扇谷上杉氏、古河公方、関東管領・山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏の3氏が連合、北条氏康を攻めた。天文14年(1545)9月連合軍は約7万の大軍で河越城を包囲、3千で籠城する北条綱成が落城するのがみえていた。北条氏康は8千で救援に向かうも戦意のなさを装い、連合軍の油断も誘い、天文15年(1546)4月の夜、氏康はうち6千を率いて敵陣へ突入、連合軍は大混乱に陥り、扇谷上杉氏・上杉朝定は戦死した。また城内の綱成が足利晴氏の陣に突入、氏康軍に気を取られていた足利軍は総崩れ、連合軍の死者は1万3千人といわれている。これを河越夜戦と呼ぶが、実際に夜戦であったかどうかを裏付ける資料はないようだ。 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征討戦では、前田利家に攻められて落城。徳川家康が関東転封後は酒井重忠が入った。以後川越藩となり、徳川譜代の掘田、大河内松平、柳沢、秋元などが入り、松井松平氏で明治に至る。 寛永16年(1639)松平信綱が6万石(のち7万5千石)で入封、川越城を拡張、整備し、7つの曲輪、3つの櫓、12城門をもつ大城郭にした。本丸の北に二の丸、三の丸、西側に厚く外曲輪、大手門に通じる曲輪、本丸の東に天神曲輪、その外に新曲輪を配し堀で囲み、おそらく当時は低湿地帯が覆っていたと思われる。 石垣はなく土塁が中心なのは徳川の関東の城の特徴だ。本丸と二の丸には御殿があり、天守はなかった。代わりに3層の富士見櫓が西南にあった。城を中心とする城下町が形成され、河川を利用した物資の集散地として栄え、新河岸川で江戸に運ばれた。現在「小江戸」と呼ばれる景観ができあがった。幕府の大老、老中が8人も出ており、江戸の北を守る重要拠点だった。ただ、今の蔵の街が出来たのは、明治26年(1893)3月17日夜に大火に見舞われ、焼け残ったのが土蔵の店で、その後に耐火造りの土蔵を建て蔵の町となっていった。 現在は本丸部分しか残っていないようだ、そのほかは市街地となって失われてしまった。また本丸も住宅に浸食されている。本丸御殿があるが玄関、大広間、家老詰所だけで、大半は明治の解体・移築などで失われてしまった。それでも本丸御殿が残っているのは高知城のみなので遺構としては貴重なものだ。富士見櫓跡は木々に覆われ視界はよくない。 <交通>JR川越駅からタクシーお勧め\1070。 <写真左>川越城本丸御殿 <写真中>富士見櫓跡 <写真右>川越城図
kenken0418 さん (投稿日 08-06-08)
新河岸川船運
川越春祭りが3月29日〜5月8日まで開催されます。 その中のイベントで、新河岸川船運を体験できます。 4月5日(土)、6日(日)10:30〜15:00 氷川神社裏・川越北公民館前 乗船無料
yoco ♪ yoco さん (投稿日 08-04-04)
2009川越・新河岸川桜まつり
今年は、4/4(土)・12:00から北公民館前にて開催されます。 春祭りのオープニングは3/22でした。 G.W.まで、川越市内で様々なイベントが開催されます。
yoco ♪ yoco さん (投稿日 09-03-24)
「通りゃんせ」の天神様
川越城本丸の東側には天神曲輪があり、ここに三芳野神社という天神様があった。 祭礼には町人の城の中への通行が許され、土塁上の細い道を通って参拝したという。帰りは見張られ、厳しく調べられ、道を違えて城の何処かに紛れ込んだら、間者として斬られるは必定・・「行きはよいよい、帰りはこわい」と唄われ、それが伝えられたのだという。
kenken0418 さん (投稿日 08-06-08)