岡口門のつぶやき
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和歌山城跡
【和歌山城跡】和歌山県和歌山市 2005/09/12登城(No31)2008/05/03再登城 秀吉の弟・秀長は天正13年(1585)紀州征伐後、紀伊、和泉の2ヶ国を加増された。秀吉が築城を命じ、自ら虎伏山を城地に選定し縄張りを行った。普請奉行に築城の名手・藤堂高虎を配し、わずか1年で完成させた。 関ヶ原後、浅野幸長が37万石で入封した。慶長10年(1605)頃に板張りの黒天守が建てられたとされ、その後、土塁部分を石垣に改修した。元和5年(1619)浅野氏は改易となった福島正則の後の広島に転封、徳川家康の十男頼宣が55万5千石で入封し、紀州徳川家となる。元和7年(1621)より城の大改修と城下町の拡張を開始した。かつての二の丸を三の丸とし、新たに砂の丸、西の丸、南の丸を築き、これで本丸をすべて外郭で囲んだ。さらに3層3階の大天守に小天守が付属し隅櫓との間を多聞櫓でつなぎ天守曲輪とした。 弘化3年(1846)天守曲輪に落雷、大小天守など御殿を除く本丸の主要建造物が全焼した。嘉永2年(1850)幕府の特別の許可で大小天守などが再建された。この時に漆喰の白い天守となった。明治4年(1871)廃城となったが天守は残った。昭和10年(1935)天守など11棟が国宝に指定された。昭和20年(1945)7月9日の米軍大空襲で天守など11棟すべてを焼失した。 現在、大小天守がコンクリではあるが再建され、隅櫓をつなぐ多聞櫓も再建されており、かつての天守曲輪の偉容をみることができる。和歌山城の石垣は豊臣時代の野面(のづら)積み、浅野時代の打込(うちこみ)ハギ、徳川時代の切込(きりこみ)ハギと3世代の材質、積み方をみることができる。とにかく石垣が多く残っており、また時代によっての変化をみることができ、石垣ファン必見の城です。 重要文化財の「岡口門」があり、一の橋大手門が復元された。一部濠も広く残っている。 <交通>JR和歌山駅から歩18分、タクシーお勧め。南海本線・南海和歌山市駅から歩12分。
kenken0418 さん (投稿日 08-05-07)