佐賀城跡のつぶやき
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佐賀城跡のクチコミ
佐賀城本丸歴史館
【佐賀城本丸歴史館】佐賀城跡本丸にある。 平成16年(2004)に、天保9年(1838)に造られた佐賀城本丸御殿を復元、公開された。 入館無料。太っ腹です。9時30分から18時。 年中無休←これは問題あり。以下の休みがある、日本語は正しく使いましょう。 12月29日〜31日は休館。そのほかにも臨時休館あり。
kenken0418 さん (投稿日 08-05-02)
佐賀城跡
【佐賀城跡】佐賀県佐賀市 2004/07/27登城(No20)2008/04/26再登城 九州を島津氏、大友氏と三分し、この地を根拠としていた龍造寺氏が築城、天正12年(1584)龍造寺隆信は島津氏、有馬氏の連合軍に敗れて戦死した(沖田畷の戦い)。その後、家臣だった鍋島直茂が台頭、天正18年(1590)には龍造寺氏の後見人として豊臣秀吉より認められ、朝鮮侵攻の文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いにおいては鍋島直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで徳川より領地を安堵された。 慶長7年(1602)に龍造寺氏が断絶、佐賀藩35万7000石の名実を握り、鍋島佐賀藩が成立した。本丸の改修をそのころから始め、鍋島直茂をついだ勝茂が慶長16年(1611)に完成させたという。 5層の天守は慶長14年(1609)に破風がない造りで完成したとされ、本丸からは天守台にあがれず、二の丸西から本丸石垣北の犬走りを通って入るようになっていた。本丸と二の丸を囲う内濠の最大幅が80mと壮大だった。ただその他は単純で素朴な縄張りで、豊臣系の発達した築城術は取り入れられていない。 また低地にありクリークが縦横にあったようだ。「沈み城」の別称があるように、攻撃されたときに八反井樋と今宿江をせき止めれば、本丸、天守の一部を残して城下町ごと湖水化させることができるという。 御殿などは火災で焼失、再建をくり返し、現存する鯱の門(本丸御殿の正門)と続櫓は天保9年(1838)に再建したもので、天守は享保11年(1726)火災で焼失、以後再建されなかった。鍋島勝茂を初代として11代続いて明治に至る。 明治7年(1874)江藤新平が起こした佐賀の乱では、城はこの反乱軍に一時占拠され、この戦闘で鯱の門を除く建造物の大半を失い、以後再建されなかった。 平成16年(2004)天保に造られた本丸御殿を復元した「佐賀県立佐賀城本丸歴史館」が完成、公開された。東側の壮大な濠は埋め立てられたが、逆コの字型に内濠が現存している。 <交通>JR佐賀駅から歩20分。タクシーお勧め\940。 <写真左>鯱の門 <写真中>天守台 <写真右>現存する濠
kenken0418 さん (投稿日 08-05-02)