原城跡のつぶやき
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原城跡のクチコミ
島原の乱の古戦場・原城跡
「島原の乱」のとき、農民たちが立て篭もった「原城」。 「原城」跡は、今ではこんもりとした丘で、雑草に覆われ、もしくは畑になっていて、「城」の面影はありません。 しかし、悪政に追い詰められて蜂起し、敗れ、殺されていった農民たちの悲劇に思いを巡らせると、のどかな風景の中にも、すすり泣きの声が聞こえてくる気がします。 途中、「ホネカミ地蔵」というお地蔵さんがあります。 明治3年、その当時でもまだ原城付近に散乱していた戦死者たちの骨を集めて、供養のためにたてられました。 「ホネカミ」という言葉からは、悲しみだけでなく、農民たちの無念さや、怨念のような迫力さえ感じられます。 ただ、悲しい思いばかりばかりではなく、頂上(本丸跡)まで登ってみると、美しい有明海の、鏡のような海原を展望できます。 行くたびに胸がいっぱいになる場所です。
島の民 さん (投稿日 08-04-08)
島原城跡
【島原城跡】長崎県島原市 2007/08/22登城(No101) 元和2年(1616)松倉重政が4万石で入封、築城を開始、7年かけ寛永元年(1624)に完成する。本丸を中心に北に二の丸を配し高石垣で囲い、それを最大幅50mの大きな濠で囲っていた。二の丸と本丸の間には廊下橋でつないでいた。高石垣と濠で堅固な城だ。二の丸の北側には三の丸があった。さらに本丸、二の丸を囲む濠の外側には外塀がぐるっと囲っていたと言う。 本丸は名古屋城に匹敵する巨大さで、5層5階(33m)の大きな天守があがっていた。わずか4万石には巨大な城で圧制と飢饉やキリシタン弾圧とあいまって寛永14年(1637)島原の乱が勃発する。天草と島原の一揆勢が合流、城に攻め寄せたが堅固でもちこたえた。攻め落とせなかった一揆勢は原城址に籠城することになる。乱鎮圧後の寛永15年(1638)に2代松倉勝家は領民に反乱を起こさせた責を問われて改易(斬首されたと言われている)、最後は松平氏で明治をむかえる。明治9年(1876)城は破却される。 現在、本丸に天守(コンクリ)、櫓が復元され、濠、石垣も整備されている。二の丸は市役所になっている。 <交通>島原鉄道、島原駅から歩5分。駅から歩いて行くと濠にぶつかる、入り口は反対側なので左に行くほうが近い。左に行くと左の画像のように眺めがいいところに来るが濠側に歩道はなく細い道で車が危ない、壕際で写真を撮る場合は注意!入り口にたどりつくとなんと歩道がない!信じられないでしょうが本当!酷い。入口には駐車券の販売所があるが、歩行者は上下の車が通る同じ車道の橋を渡らなくてはならない。で近くてもタクシーがいいように思う。帰りは元の橋へ戻り右へ行けば二の丸(市役所)を廻って駅方向へ戻れます。こちらは壕側に歩道があって快適です。また二の丸の市役所へ抜けて行くこともできます。
kenken0418 さん (投稿日 08-04-02)