伊賀流忍者博物館のつぶやき
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伊賀流忍者博物館のクチコミ
伊賀流忍者博物館
「伊賀流忍者博物館」では興味深い数々の 展示がされているし俳聖・芭蕉の旅姿を 模して建てられた「俳聖殿」は一見の価値がある。 詳細・画像↓ http://tabitano.main.jp/4ninjya.html
大納言7892 さん (投稿日 10-10-21)
未完の城・伊賀上野城
【伊賀上野城】三重県伊賀市 2006/10/27登城(No62) 藤堂高虎が伊賀、伊勢22万石で転封されたのは慶長13年(1608)、丹波篠山城、亀山城の城普請にかりだされ上野城に着手したのは3年後の慶長16年だった。家康は大坂への備えとして彦根(井伊)、伊賀上野に外様ながらもっとも信頼する高虎を配した。 本丸の西側に日本一の高石垣(30m)を配し、東側に曲輪(筒井氏時代の本丸)を配した。だが真ん中に南北の道があり、堀は東、西にあるが南北の道の部分で切れている。南北の道には櫓、門もない。天守は西側(高石垣)に5層の天守をあげていた。だが慶長17年(1612)暴風で倒壊してしまった。 城は未完のままにしたようだ。慶長20年(1615)大坂夏の陣で豊臣が滅び、大坂に備える意義も失われた。その後も築城名人として大坂城、二条城、日光東照宮、東叡山寛永寺の造営・修築に忙しかった。 高虎最後の城が未完なのは名人としてどう思っていたのだろうか?藤堂家は国替えもなく明治まで代々領土を守り通した。しかし鳥羽・伏見の戦いでは幕軍の先鋒として出陣したが、寝返り、変わり身(高虎ゆずり)の早さをみせた。 現在の3層3階の天守は昭和10年(1935)に川崎克氏により建てられたもので、木造、2層の小天守を伴っている。70年以上たつとそれなりにマッチしている(伊賀文化産業城)。近くに伊賀流忍者博物館、歴史民族資料館あり。 <交通>近鉄伊賀線上野市駅歩8分。上野市駅から地下通路で反対の伊賀市役所側に出ればすぐ。なお伊賀線は本数が少ないので事前確認要。
kenken0418 さん (投稿日 08-04-01)