弘道館のつぶやき
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弘道館のクチコミ
弘道館
水戸藩第9代藩主斉昭公が創設した藩校です。
大納言7892 さん (投稿日 10-05-30)
水戸城
【水戸城】茨城県水戸市三の丸 2005/12/14登城(No38)2008/07/21再登城 歴史は古く室町時代、馬場(当時の当地の名)城主・馬場満幹は室町幕府についた江戸通房に敗れ、代わって江戸氏が馬場城主となり以後7代約170年間続いた。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めで、江戸重通は北条氏に与し、佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石の太守に封じられた。 文禄3年(1594)佐竹義宣は江戸氏が籠城する馬場城を攻め落とし太田城(常陸太田市)から本拠を移した。義宣は城を大改修し名も水戸とした。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは曖昧な去就で、徳川家康としては江戸の北東の脅威を取り除く絶好の機会となり、佐竹氏は慶長7年(1602)家康より出羽国久保田(秋田)に転封を命じられた。 家康5男の武田信吉を15万石で入封し没後、10男徳川頼宣を20万石、慶長14年(1609)頼宣は駿府50万石で転封、11男の徳川頼房が25万石で入封、以後幕末までつづく。 頼房は城と城下町を拡充整備し、二の丸に居館を構えた。天守はなく質素な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建て、隅櫓や多聞櫓も少なく塀を多用した。また関東の徳川の城の特徴で土塁中心で石垣は少ない。 那珂川を北の濠とし、南を千波湖に挟まれた細長い台地の高い所を本丸とし、東に東二の丸、西に二の丸を配し、さらに二の丸の西に三の丸を築いた。それぞれを深い空堀で防御している。本丸と二の丸、二の丸と三の丸へは橋で連絡していた。また南側には水堀もあったという。 藩校の弘道館は天保12年(1841)に9代藩主の斉昭によって開かれ、また名園の偕楽園を造った。 幕末、天狗党と諸生党の対立が起き、慶応4年(1868)弘道館に籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この戦闘で城内のほとんどの建物が焼失したという。残っていた三階櫓は昭和20年(1945)8月空襲で焼失した。 現在、三の丸の弘道館を除いて何もない。空堀は残っているが、道路、鉄道(JR水郡線)に利用されている。本丸、二の丸は学校など公共施設となっており、遺構はない。本丸の橋詰門だったという薬医門が本丸(水戸第一高校)入り口に移設されている。現在の番地が本丸も二の丸も「三の丸」となっていて変だな。 <交通>JR水戸駅から弘道館前まで歩8分。そこから二の丸を通り本丸まで歩6分。 <写真左>二の丸から大手橋(昭和10年)と三の丸弘道館の門 <写真中>二の丸から本城橋、かつての本丸 <写真右>本城橋上から空堀(水戸駅方面)、左・本丸、右・二の丸、水郡線の線路
kenken0418 さん (投稿日 08-07-22)
水戸徳川家の学校
駅から10分弱で到着。 最後の将軍『慶喜』が5歳から英才教育を受けた学校という事で楽しみに向かいました。 館内は説明テープが設置されていてガイドさんがいなくても分かりやすかったです。
saya1 さん (投稿日 07-12-18)
斉昭公揮毫の「尊攘」
玄関を入ってすぐ斉昭公が揮毫された「尊攘」の掛け軸があります。幕末において、一番の尊王派でありながら、藩内の主導権争いにより、明治維新に乗り遅れてしまった水戸徳川家は、貧乏くじを引いたものだと感じます。施設自体はとてもよく手入れが行き届いており、見学後にはとても気持ちが落ち着きます。
11263 さん (投稿日 07-05-13)
江戸時代の日本最大規模を誇る藩校
水戸藩の藩校として第9代藩主 徳川斉昭により天保12年(1841年)8月に創設されました。藩士に文武両道の修練をつませようと武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、いわば総合大学というべきものでした。当時の藩校としては国内最大規模のものであり、弘道館建学の方針を示す「弘道館記」の内容や学校教育の特色によって有名になりました。 第15代の将軍となった慶喜も父斉昭の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受け、さらに慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂が今も残っています。 現在も一部分が保存され旧弘道館として国の特別史跡になっているほか正庁・至善堂・正門の3ケ所は重要文化財に指定されています。
となりのエフピー さん (投稿日 07-01-18)