首都圏の「坂本龍馬」ゆかりの地(全22件)
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土佐藩上屋敷跡
東京都千代田区
龍馬が最初の剣術修行で江戸に出てきた嘉永6年(1853)に滞在したのが現在の東京国際フォーラムの辺りです。かつては上屋敷跡碑がありましたが現在はありません。当時を想像するのは難しい場所ですが、東京の龍馬史蹟巡りはここを拠点に始まります!
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土佐藩中屋敷跡
東京都中央区
有楽町の東京国際フォーラムからは銀座を通って歩いて10分ほど。2度目の剣術修行時に武市半平太と共に滞在したのが現在の中央区役所の辺りです。ここも当時を想像するには非常に難易度が高い場所ですが、辺りは確実に龍馬が歩いていた場所です。
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千葉定吉道場跡(1)
東京都中央区
2説あり、まずは玄武館から程近い日本橋堀留町1丁目付近を紹介。嘉永6年の古地図に千葉定吉の名があり有力視されています。碑や看板も一切なく、どこが跡地付近なのかも分かりにくいですが、近くの椙森神社が当時の姿を残しています。
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千葉定吉道場跡(2)
東京都中央区
もう1つが東京駅八重洲口の鍛冶橋交差点付近。こちらは上・中屋敷から共に近く、ここだったら玄武館よりもこっちを選びたくなる、と思わず頷いてしまう立地条件。真実は定かではありませんが、実際に歩くとこっちじゃないかなと思ってしまいます。
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玄武館跡
東京都千代田区
上屋敷・中屋敷から徒歩20分強で神田お玉ヶ池・千葉道場に着きます。北辰一刀流創始者・千葉周作は龍馬修行時には高齢だったため、龍馬は弟・千葉定吉道場に学んだとも。旧千桜小学校跡地に碑が立っています。龍馬も試合や稽古などで出向きました。
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桃井道場(志学館)跡
東京都中央区
龍馬2度目の剣術修行時には龍馬の盟友・武市半平太も同時に江戸に出ていました。武市が剣術を学び、塾頭となったのが江戸3大道場の1つ、桃井春蔵の士学館。中屋敷からは徒歩5分ほど。現在は京橋プラザ前の公園に小さな看板が出ています。
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佐久間象山邸跡
東京都中央区
龍馬が佐久間象山の下で西洋砲術を学んだのは象山が吉田松陰に渡米密航を勧めた罪で逮捕されるまでの僅か4ヶ月間。龍馬、最初の江戸留学中でした。土佐藩上屋敷から程近い、銀座東5丁目付近。現在の電源開発本社ビル付近が邸跡です。
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越前福井藩邸跡
東京都千代田区
脱藩直後の文久2年(1862)、龍馬はここで幕府の政治総裁職だった松平春嶽と面会しました。皇居の程近くで千葉定吉の道場からは徒歩10分ほど。今はNTTてれぱーくが立つ辺りです。この時に横井小楠、勝海舟への面会状を入手したと言われています。
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勝海舟邸跡
東京都港区
龍馬が千葉重太郎と共に訪れ、その場で弟子入りをしたのがこの場所。現在はGABYというバーがあり、その前に碑が立っています。当時の面影を想像するのは困難ですが、近くの氷川神社を訪れれば、赤坂の地を愛した勝の気持ちを感じることができます。
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幕府軍艦操練所跡
東京都中央区
勝海舟が頭取を勤めた操練所に龍馬が通ったのは脱藩以降。中屋敷から徒歩10分ほど。現在は築地市場の建物が建ち、看板があります。元治元年(1864)将軍家茂上洛の際に、護衛目的で勝と共にここから幕府船の観光丸で出航、大阪に入りました。
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浜川砲台跡
東京都品川区
龍馬最初の留学時、品川警護を命じられて配置されたのがこの付近。ここからペリーの黒船を見て大変なショックを受け、父・八平宛に手紙を書きました。最近礎石と思われる石が出土し、据えられています。龍馬が寝泊りをした土佐藩下屋敷が浜川中学校周辺。
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勝・西郷会見の地碑
東京都港区
勝は坂本龍馬を見出した人物ですが、その最大の偉業は江戸を戊辰戦争の戦火から救ったことかもしれません。慶応4年3月14日、勝と西郷隆盛はこの地(旧薩摩藩蔵屋敷)で会談を行いました。このすぐ裏手が海だったなんて、今ではちょっと信じられませんね。
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坂本龍馬像
東京都品川区
余り知られていませんが、東京でも龍馬に会えます!京浜急行・立会川駅下車すぐの北浜川児童遊園に龍馬が立ちます。これは品川区が浜川砲台の礎石を高知市に送ったお礼として、高知市から贈られたもの。ホテル南水の前にあった強化プラスチック製の龍馬像です。
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勝海舟の銅像
東京都墨田区
龍馬の師であり、江戸を戦火から救った勝海舟。銅像は市民有志によりH15年に建立され、彼がこよなく愛した隅田川近く、墨田区役所前に立っています。勝が生まれ育った墨田区には、勝の生誕地、居住の地などのいくつかの史蹟が残されています。
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西郷隆盛像
東京都台東区
脱藩した龍馬を保護した西郷隆盛は、また勝と共に江戸を戦火から救いました。その功績を称えて1898(明治31)年に建立されたのがこの銅像です。草履に着流し姿で上野恩賜公園正面の山王台広場に愛犬とともに立つ姿は、今や東京のシンボル的存在。
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勝海舟の墓
東京都大田区
勝は西郷隆盛との江戸城明け渡し会談の際に立ち寄った洗足池の自然に感嘆し、洗足軒という別邸(現・大森六中)を設けました。今はその近く、洗足池の畔に妻と共に眠ります。その脇には西南戦争で散った西郷隆盛を惜しみ、勝が建てた留魂祠もあります。
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青山霊園
東京都港区
1874(明治7)年に造られた日本で初めての公営墓地。志賀直哉、尾崎紅葉、犬養毅など多くの著名人も眠っている。春には見事な桜のトンネルができ、絶好の散歩道となる。
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板垣退助の墓
東京都品川区
土佐閥の生き残りとして元勲となるものの征韓論で敗れ下野。自由民権運動を起こし、実質龍馬の跡を継いだような形となった板垣は、生前の希望通り、品川神社の裏(元の「高源院」(東海寺末寺)にひっそりと眠っています。
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雑司ヶ谷霊園
東京都豊島区
約11万平方メートルの広さをもつ都立霊園。敷地内には夏目漱石や永井荷風、泉鏡花、竹久夢二、小泉八雲、ジョン万次郎などといった名だたる著名人の墓が並ぶ。
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山内容堂の墓
東京都品川区
幕末の四賢候と呼ばれるも、龍馬にとっては土佐勤王党を弾圧され、直接会う機会もなかった土佐藩主・山内容堂。彼が龍馬を知ったのは維新後と言われています。今は遺言により龍馬も訪れた土佐藩下屋敷があった大井公園内に眠ります。
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お龍の銅像
神奈川県横須賀市
お龍の終焉の地に立つ銅像で、「おりょう会館」(葬祭場)の敷地内にあります。こちらは高知の銅像とは違い、晩年のおりょうの姿。龍馬と別れた後の哀愁が漂います。おりょうのお墓を訪れた際には是非立ち寄ってみてください。
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お龍の墓(信楽寺)
神奈川県横須賀市
龍馬の死後、高知、京都、横須賀と苦労を重ねたお龍はツルと名乗り、西村松兵衛と結婚。貧困の中、明治39年66歳で亡くなり、神奈川県横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に眠ります。墓石には贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓と刻まれています。信楽寺には龍馬・おりょう夫婦の等身大の木造座像もあります。
甲信越の「坂本龍馬」ゆかりの地(全1件)
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千葉佐奈の墓(清運寺)
山梨県甲府市
千葉定吉の3人の娘の長女・佐那。「龍馬の許婚」として終生独身を通し、形見の袴を大事にしました。学習院女子部の舎監などを経て、明治29 年59歳で死去。谷中霊園に埋葬後、この地に分骨され現在に至ります。墓石には坂本龍馬室と刻まれています。
北陸の「坂本龍馬」ゆかりの地(全10件)
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福井城址
福井県福井市
徳川家康の次男初代藩主結城秀康が1606年に築城。越前松平家の繁栄の舞台。石垣と濠が往時を偲ばせる。花見の名所。福井の名の由来「福の井」と呼ばれる井戸も。
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福井神社(松平春嶽像)
福井県福井市
松平春嶽の銅像ここにあります!福井神社は昭和18年に最後の別格館幣社(国に業績を挙げた人物を祀る神社)として創建、戦災で焼けるも福井大学工学部の設計で再建されました。神社としては強烈な違和感を感じるほどのコンクリート造りにも注目です。
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横井・三岡旅立ちの像
福井県福井市
熊本藩士・横井小楠は福井藩の財政再建を行いました。龍馬も福井と熊本で横井の意見を聞いています。銅像は安政5年(1858)熊本に一時帰国する小楠と三岡八郎(由利公正)を再現。三岡はこの旅で長崎での物資販売ルートを開拓、藩財政を改善しました。
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由利公正(三岡八郎)像
福井県福井市
福井神社の隣・中央公園内に堂々と立つ三岡八郎像。三岡は横井小楠の指導を受け、藩内改革を推し進めて財政再建をしました。龍馬暗殺の際、に依頼されて新政府の財政案を作成。五箇条の御誓文の原案を起こしたことでも知られています。
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福井市立郷土歴史博物館
福井県福井市
福井藩主であった松平家の資料を中心に、福井の古墳、福井城などのテーマで常設展示している。また原寸大の復元模型やCGを使った展示、さらに「へんしん越前屋」では江戸時代の衣服や大名駕籠を体験できる。
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丹厳洞
福井県福井市
福井最重要龍馬史蹟です!1846年に建てられた土蔵造り2階建ての草庵で、藩主・松平春嶽、中根雪江、橋本左内、三岡八郎たちの密会所として使われました。龍馬がここを訪れたかどうかは定かではありませんが、当時の雰囲気を肌で感じることができます。※午前中のみ見学可。料亭2名以上要予約
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九十九橋
福井県福井市
幕末迄、足羽川に架っていた福井城下唯一の橋。柴田勝家により半分石、半分木で架けかえられ江戸期を通じて奇矯として知られました。現在は新しく架け替えられていますが、龍馬もこの橋を渡り、城下に入ったと伝えられています。
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莨屋(たばこや)旅館跡
福井県福井市
龍馬は大政奉還後、福井藩主松平春嶽に上洛を要請。翌日、謹慎中の三岡と新政府の財政を語り合ったのがここです。この折、龍馬は自らの写真を三岡に渡します。1週間後、龍馬暗殺の際、三岡が所持していた龍馬の写真を無くしたというのは有名な話です。
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横井小楠邸跡
福井県福井市
龍馬が最も尊敬した人物の一人、熊本藩士・横井小楠。保守的な熊本では彼の開国論は受け入れられずも、松平春嶽の招きで福井越前藩にて藩政改革を実施しました。文久3年(1863)5月16日、神戸海軍操練所の資金援助を懇請しに越前福井を訪れた際に、訪れたのがここです。
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三岡八郎(由利公正)邸跡
福井県福井市
若くして藩財政の建て直しを行い、熊本藩から招かれた横井小楠と共に藩政改革を進めました。一時謹慎しますが、龍馬によって再び世に出され、龍馬の船中八策を基に五箇条の御誓文の草案を作成すると共に、明治政府の財政を担当していきます。後の初代東京府知事です。
近畿の「坂本龍馬」ゆかりの地(全50件)
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霊山歴史館
京都府京都市東山区
昭和45年、明治維新で活躍した志士の事蹟を伝えるため開館。動乱の幕末維新史に登場する坂本龍馬、新選組、西郷隆盛、高杉晋作らの遺品をはじめ、約5000点の資料を収蔵、展示。
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寺田屋
京都府京都市伏見区
京橋付近に立つ旅館。寺田屋騒動で知られ、宿の東に位置する寺田屋旧跡には、「薩摩九烈士遺跡碑」がある。この事件後には、坂本龍馬が隠れ宿とした。
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酢屋
京都府京都市中京区
河原町三条を一筋下がった龍馬通に立つ木工品店。「酢屋」はかつて坂本龍馬が投宿していた280年続く材木商。投宿した2階は、現在「ギャラリー龍馬」になっている。
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あけぼの亭井和井
京都府京都市東山区
産寧坂の石段前の中ほどにある京小物の店。坂本龍馬ゆかりの店舗。井和井オリジナルの商品を中心に和小物、お香、扇子など取り揃えている。
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近江屋跡
京都府京都市中京区
幕末の1867(慶応3)年、坂本龍馬・中岡慎太郎が刺客に襲われた醤油屋近江屋の跡。「坂本竜馬・中岡慎太郎遭難地」の石碑が立つ。
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土佐藩邸跡
京都府京都市中京区
江戸時代初期から1871(明治4)年まで、土佐藩邸があったところ。幕末には坂本龍馬ら勤皇の志士がこの藩邸を拠点に活躍した。高瀬川沿いに碑が立つ。
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三条大橋
京都府京都市中京区
三条大橋の西から2番目の南北の擬宝珠には刀傷が。これは池田屋を脱出した志士とそれを待ち受けていた新選組との激しい戦闘で付いたとされるもの。知らないと分かりません。じっくり見てください!
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西岸寺
京都府京都市伏見区
天正18年に建立され、油をかけて祈願すると願いが叶うという油懸地蔵で有名です。寺田屋から徒歩5分足らずの場所にあり、寺田屋で襲撃された龍馬と三吉がこの地蔵に身を潜めたという伝説が残ります。龍馬史跡巡りのついでに願い事をしてみては。
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材木納屋跡
京都府京都市伏見区
寺田屋を脱出した龍馬と三吉が身を潜めたのが濠川沿いの材木納屋です。寺田屋からは徒歩7-8分。龍馬は左右の指を負傷し、ここで動けなくなりました。お龍と三吉が相次いで伏見薩摩藩邸に急報。龍馬は船で救出されます。現在は酒造会社になっています。
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伏見薩摩藩邸跡
京都府京都市伏見区
竹田街道を北上して徒歩15分ほど。濠川沿いに伏見薩摩藩邸跡がポツリとあります。寺田屋事件の際は、留守を守る大山彦八が藩邸前の濠川を藩旗を立てた船で下り龍馬救出へと向かいました。材木納屋の前の川と繋がっている点に注目です。
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七条新地 扇岩跡
京都府京都市下京区
父・楢崎将作が亡くなった後、お龍が奉公に出ていたのが「扇岩」です。東本願寺の東側・高瀬川正面辺りにありました。現在は旧七条新地跡として面影を残しています。ちなみに母・貞が住み込みで働いた河原屋五兵衛の隠居所は鴨川を挟んですぐ。
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三十三間堂南大門付近
京都府京都市東山区
元治元年(1864)頃、龍馬、中岡慎太郎、望月亀弥太ら土佐藩士たちの居住地となっていたのが南大門の南・大仏南門通にあった河原屋五兵衛の隠居所です。ここに賄いとして住み込みで働いていたのがお龍の母・貞。ここで龍馬とお龍は出会いました。
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蛤御門
京都府京都市上京区
文久3年(1863)8月18日の政変で京都から撤退した長州藩が再度上洛し、復権を図った「禁門の変」の激戦地です。長州の久坂玄瑞らがここで命を落とし、その後の長州征伐へと流れが続きます。京都御所の西側にあり門には今なお当時の銃跡が残ります!
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梨木神社
京都府京都市上京区
京都御所の東側、旧三条家邸宅跡に三条実万・実美親子が祀られています。いわゆる実美は急進派の七卿の1人でその中心人物でもありました。龍馬も大宰府で実美と会い、薩長同盟を説いています。現在は萩の名所としても知られています。
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薩摩藩二本松邸跡碑
京都府京都市上京区
慶応2年(1866)薩長同盟未締結を知った龍馬が怒り心頭で寺田屋から駆けつけたのが西郷がいたこちら。また寺田屋襲撃後の龍馬が伏見藩邸から担ぎ込まれたのもここになります。その規模は約9,000uもあったとか。現在は同志社大学が建っています。
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坂本龍馬 妻お龍の実家 楢崎家跡
京都府京都市中京区
お龍は天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生後、家族と共にこの地に長く住みました。父・将作は梅田雲浜らと親交があり、尊皇派の交流の場だった可能性もあります。お龍は父の在世中は良家のお嬢様として家事をせず、華道、茶道などに専念しました。
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お龍独身時代寓居跡碑
京都府京都市中京区
お龍が文久2年(1862)の父の死後、家族と移り住んだのが木屋町の家。お龍が大坂から妹光枝を連れ戻したのはこの時のエピソード。後にお龍は「扇岩」に、母と妹君江は南大門南の河原屋五兵衛の隠居所に住み込みで働き、その縁で龍馬と出逢います!
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土佐藩邸跡
京都府京都市中京区
江戸時代初期から1871(明治4)年まで、土佐藩邸があったところ。幕末には坂本龍馬ら勤皇の志士がこの藩邸を拠点に活躍した。高瀬川沿いに碑が立つ。
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武市瑞山先生・吉村寅太郎寓居之跡
京都府京都市中京区
吉田東洋暗殺後、藩の実権を握った武市半平太が京都留守居役となって住んだのが木屋町高瀬側沿いの料亭「丹虎」。龍馬より早く脱藩した吉村寅太郎も隣に居を構えるも、武市は藩主山内容堂に命じられ帰国後、切腹。吉村も天誅組の変で戦死します。
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池田屋騒動之址碑
京都府京都市中京区
元治元年(1864)6月5日、新選組は旅籠・池田屋に踏み込み、吉田稔麿、宮部鼎蔵、望月亀弥太ら過激派の尊皇攘夷志士たちを討ち取り、京都を震撼させました。現在は同名の居酒屋が建ち、新選組ファンが集います。
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志る幸(しるこう)
京都府京都市下京区
近江郷士・古高俊太郎が営む桝屋があったのはここ。志士たちを援助するも新選組に捕らえられ、武器弾薬を発見されました。それをきっかけに池田屋騒動が起こり、多くの志士が犠牲になりました。現在は昭和7年創業の「志る幸」が幕末の雰囲気を伝えます。
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象山先生遭難之碑
京都府京都市中京区
勝、龍馬も学んだ佐久間象山は、門弟・吉田松陰密航事件による連座蟄居後、元治元年(1864)に一橋慶喜に招かれ、公武合体論と開国論を説きました。しかし共も連れずに木屋町を歩き、尊皇攘夷派により暗殺。碑の大きさから佐久間の影響力が伝わります。
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料理旅館 幾松
京都府京都市中京区
長州屋敷の東に、桂と芸妓・幾松の寓居がありました。現在は料理旅館ですが、敵の襲撃に備えた抜け穴や吊天井が当時のままに!長州の京都撤退後、乞食に扮して情報収集を行う桂とそれを支えた幾松は明治後結婚。2人の愛の物語は有名です。
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桂小五郎像(長州屋敷跡)
京都府京都市中京区
木屋町通、御池通の北に幕末の火薬庫・長州藩の京都藩邸がありました。尊皇攘夷派の中心地であるも元治元年(1864)の禁門の変後、自らの火でその役目を終えます。現在は京都ホテルオークラが建ち、桂小五郎像と長州屋敷跡の碑が建っています。
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中井正五郎殉難地碑(天満屋騒動之跡)
京都府京都市下京区
龍馬の暗殺犯と考えられた紀州藩士・三浦休太郎を、海援隊士・陸奥陽之助や十津川郷士・中井庄五郎らが襲った場所。三浦は難を逃れ、襲った中井は護衛の新選組により斬殺されてしまいます。近くの宇治茶の美好園さんが当時の建物の面影を残しています。
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渉成園
京都府京都市下京区
東本願寺の別邸。龍馬が大政奉還の大儀を説くため、大目付・永井尚志と会ったのが枳殻邸と言われています。3代家光により寄進された東本願寺の境内です。池泉回遊式の美しい庭園があり、14代家茂、15代慶喜、松平春嶽らも訪れています。
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越前福井藩邸跡碑
京都府京都市中京区
二条城の目の前、「京都国際ホテル」の辺りが越前福井藩邸の跡。龍馬は幕府の政治総裁職として多忙な日々を送っていた藩主・松平春嶽にアポなしで会いに行き、海防策の意見を求めたとか。それにしても脱藩浪人で藩主に会ってしまう龍馬に脱帽です!
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二条城
京都府京都市中京区
徳川慶喜が在京した40藩の前で、土佐藩の建白書を受け入れ大政を奉還したのが二の丸御殿大広間。慶応3年10月13日のこと。用いられざる時には死を覚悟して登城する後藤象二郎に対し、龍馬は海援隊で決起し切り込む覚悟を記した檄文を書いています。
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京都御所
京都府京都市上京区
慶応3年12月9日、王政復古後初の会議が小御所で行われ、倒幕派の暗躍により徳川家に辞官と領地返上を命じることを決定。戊辰戦争へと流れは続きます。残念ながら建物は昭和29年に消失、再建されたものですが、この空気感は是非体験してみて下さい!
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横井小楠殉節地
京都府京都市中京区
先進的すぎる余りに自藩から疎まれるも、松平春嶽の政治顧問として活躍、私塾「四時軒」にて人材を育てた横井。龍馬の思想的な先生でもあり、龍馬の新政府構想でも参議となっていましたが、維新後に惜しくもこの地で保守派に殺されました。
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中岡慎太郎寓居跡
京都府京都市中京区
陸援隊隊長で、龍馬以上に薩摩・長州の和解に尽力した中岡慎太郎は、龍馬がいた近江屋とは河原町通りを挟んで向かい、土佐藩御用達の書林・菊屋の鹿野安兵衛宅に隠れていました。現在はお店の前にひっそりと石碑が立っています。
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鳥新跡
京都府京都市下京区
慶応3年11月15日夜、龍馬が使い走りの峰吉に大好物の軍鶏を買いに行かせたのがこの辺り。「鳥新」は高瀬川に架かる四条小橋の角にありました。待たされた峰吉が戻ってみると既に惨劇の後でした。明治後、「鳥新」は縄手四条上ルに移転し、現在に至ります。
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木戸孝允邸址
京都府京都市中京区
京都を追われ続けた桂が近衛邸を買い取って京に別邸を持ったのは明治2年のこと。明治10年、桂はこの屋敷で病に倒れ、明治天皇の見舞いを受けますが、1週間後に息を引き取ります。当時の建物が「職員会館かもがわ」にて保存されています。必見です!
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二軒茶屋 中村楼
京都府京都市東山区
龍馬が暗殺された現場に残されていた2足の下駄のうちの片方が「二軒茶屋中村屋」。創業450年になる老舗で、幕末には多くの志士が訪れました。明治後に「中村楼」と改称。現在は料亭として営業しながら、表では茶屋として名物の豆腐田楽が味わえます。
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龍馬坂
京都府京都市東山区
翠紅館の裏手に竹に覆われたひっそりとした石畳の道があります。観光客も滅多に通らない正法寺へと向かうこの道は、慶応3年11月18日、海援隊士や陸援隊士らによる龍馬と慎太郎の葬列が通った道。いつの頃からか龍馬坂と言われるようになりました。
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京都霊山護国神社
京都府京都市東山区
日本初の官祭招魂社として創建。明治維新の立役者たちが1000人以上祀られています。龍馬と慎太郎、桂と幾松、その他にも久坂玄瑞、吉田稔麿、吉村寅太郎らがこの地に眠ります。また京都市内の眺めや紅葉も見事。京都観光のクライマックスです!
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坂本竜馬の墓
京都府京都市東山区
1868(明治元)年、日本初の官祭招魂社として創立された霊山護国神社が境内にある。中岡慎太郎の墓と並び、ここからの京都市街の眺望が美しい。
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桂小五郎・幾松の墓
京都府京都市東山区
薩摩の西郷、大久保と共に維新三傑と称され、維新後は長州閥の重鎮として文明開化を推進した桂。西南戦争の最中病に倒れ、西郷の行く末を案じたまま息を引き取りました。「同志と共に眠りたい」という遺言に基づき松子夫人(幾松)と共にこの地に眠ります。
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維新の道
京都府京都市東山区
東大路通りから京都霊山護国神社へ向かう道。坂を上りきったところに、維新の志士たちが眠る京都護国神社、幕末の資料を集めた霊山歴史館、志士たちが聖地とした霊明神社がある。
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坂本龍馬・中岡慎太郎像
京都府京都市東山区
枝垂桜で有名な円山公園内にある龍馬と慎太郎の銅像。京都の高知県人会により建立されるも戦争のため没収。昭和37年に再建されました。
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神戸海軍操練所跡碑
兵庫県神戸市中央区
旧居留地・京橋交差点そばに碑が立っています。操練所はここから東へ長く広がり、約10,000坪の広大な敷地を擁しました。龍馬は正確には幕臣向けの操練所ではなく、隣接した勝海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭を務め諸藩から集まった志士たちを束ねました。
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勝海舟邸跡
兵庫県神戸市中央区
勝は操練所ができあがると、生島邸を出て、生田の森あたりに屋敷を構えたと言われています。ここはまさに三宮の駅前。生島に神戸の土地は後に高く売れるよと語った勝ですが、屋敷跡が神戸の中心地になるとまでは予想していなかったのでは。
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神戸海軍操練所書生寮跡
兵庫県神戸市中央区
操練所の書生寮があったのは大体この辺り。すぐ近くに三宮神社があり、龍馬はその隣にあった行きつけの小料理屋「三茂」でよく飲んだとか。29歳の龍馬が若い連中を連れて遊んだ神戸の姿は、今の神戸と重なるかもしれません。
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海軍営之碑
兵庫県神戸市中央区
神戸を見下ろす諏訪山公園内に立つ碑です。勝が将軍家茂の神戸視察を記念し「日本海軍発祥の地」として操練所内に立てる為に作ったもの。操練所閉鎖後、生島四郎が保管し、後にこの地に建てました。北野観光のついでに立ち寄ってみてください。
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神戸海軍操練所記念碑
兵庫県神戸市中央区
神戸海軍操練所跡碑よりやや西に歩くと「みなと公園」内に碑が立ちます。向かって左が「海軍営之碑」の複製碑で、右は後の外務大臣・陸奥宗光の功績を記念した顕彰碑。陸奥は元紀州藩士で、神戸以降龍馬と行動を共にし、その才能を愛されました。
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網屋吉兵衛顕彰碑
兵庫県神戸市中央区
海軍操練所碑より南へ250m、地元の呉服商・網屋吉兵衛を称える碑。操練所は彼が75歳で完成させた「船たで場」(船底の貝殻等を取る場)を基に建てられました。将軍家茂の神戸視察の際には「神戸は港に最適」と進言。勝や龍馬の神戸での大先輩です。
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加納宗七像
兵庫県神戸市中央区
勝海舟邸跡よりやや南、東遊園地の一角に加納宗七の像があります。紀州藩御用商人でしたが、龍馬暗殺の折に陸奥宗光と共に黒幕とされた紀州藩士・三浦休太郎を襲撃(天満屋事件)。後に材木商を営み神戸発展に尽くし、今でも町名に名を残しています。
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湊川神社(楠公さん)
兵庫県神戸市中央区
1872(明治5)年の創建。楠木正成公を祀り、境内の右に水戸光圀公建立の正成公の御墓所「嗚呼忠臣楠子之墓」国史跡があり、宝物殿には正成公とゆかりの品が収蔵されている。
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舞子砲台跡
兵庫県神戸市垂水区
将軍家茂が視察し、勝が設計した砲台です。明石海峡大橋の袂にあり、現在は台場のみが残ります。砲台建設には操練所の明石藩士たちが手伝いました。龍馬が宿泊した「左海屋」の跡地に建ち、大正期に栄えた「萬亀楼」の屋敷が隣接地に残されています。
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和田岬砲台
兵庫県神戸市兵庫区
勝の設計で2万5千両という大金をかけ建設されるも大砲が装備されることなく役目を終えた砲台です。勿論龍馬も訪れています。当時のままに残っているのですが、残念ながら平成25年まで改修工事中。神戸最重要史蹟の1つですので是非とも覚えておいてください!
中国の「坂本龍馬」ゆかりの地(全23件)
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いろは丸展示館
広島県福山市
坂本龍馬ら海援隊を乗せた蒸気船いろは丸が大阪へ航行中、鞆港沖で沈没。近年の潜水調査で引き揚げられた石炭、滑車、古伊万里茶碗などを展示。沈没のようすを映像で再現。
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桝屋清右衛門宅
広島県福山市
江戸時代の廻船問屋で、いろは丸事件の際に海援隊を応援し、宿舎となりました。近年屋根裏から当時龍馬らを匿った部屋が見つかり、いろは丸展示館に再現されています。当時のままの建物が残っていますが、現在内部の観覧はできません。
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魚屋萬蔵宅(御舟宿いろは)
広島県福山市
紀州藩と海援隊による日本初の海難審判が行われたのがこちら。長いこと空家でしたが近年改修されました。改修時にデザインを提供したのは、当時近くに滞在していた宮崎駿監督!龍馬と宮崎駿監督の夢のコラボが楽しめるお宿。ランチ営業もオススメです!
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対潮楼
広島県福山市
天暦年間(950年頃)に建てられたと伝わる真言宗の寺院、福禅寺の客殿。本堂に隣接する対潮楼は、元禄年間(1690年頃)に建てられたもので、国の史跡に指定されている。
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大可島城跡・圓福寺
広島県福山市
いろは丸事件では紀州藩の宿舎として使われましたが、現在の建物は再建されたもの。南北朝時代の古戦場跡で、元々島でしたが、鞆城が出来たおりに陸続きになり建立されました。朝鮮通信士の宿泊にもなっています。弁天島、仙酔島を望む眺めは絶景です。
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太田家住宅
広島県福山市
薬酒である保命酒の醸造元だった商家の建物を保存修理し、公開している。18世紀中期に建てられた主屋や醸造蔵など9棟からなり、重要文化財に指定されている。
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浄泉寺
広島県尾道市
浄土真宗の寺院で、本堂の大屋根にある16畳の大きさの鬼瓦が目を引く。本堂の縁側は真夏でも涼しく、昔は昼寝寺とも呼ばれた。頼山陽の筆跡を刻んだ手水鉢がある。
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館
広島県福山市
潮待ち、風待ちの港として栄えた鞆の浦の歴史や文化、民俗資料などを展示した資料館。鍛冶屋、保命酒屋の店先や鯛縛り網漁のようすを紹介するコーナーもある。
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平成いろは丸
広島県福山市
鞆の浦〜仙酔島へと渡る市営渡船が「平成いろは丸」として生まれ変わりました!全長約22m、19トンと小ぶりですが、船内には龍馬の写真などが設置され、レトロな雰囲気が漂います。日本初の国定公園・仙酔島までは約5分。海からの鞆の浦もまた格別です!
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白石正一郎宅址
山口県下関市
下関海戦に勝利した高杉晋作と龍馬が慶応2年6月20日に訪れたのがここです。また奇兵隊結成の地としても有名です。白石正一郎は勤王派の商人として知られ、奇兵隊員でもありました。当時はこの辺りに門があり、海へと通じていました。
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高杉晋作終焉の地
山口県下関市
慶応3年4月14日、高杉が27年の短い生涯を閉じたのが林算九郎邸の離屋があったここ。小倉戦争の時には既に高杉は病に冒されていました。白石正一郎宅址からほど近くに、ひっそりと碑が建っています。遺骸は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に埋葬されました。
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伊藤助太夫(九三)邸跡(本陣伊藤邸跡)
山口県下関市
龍馬とお龍の新婚生活の舞台です!2人は慶応3年(1867)2月からこの邸宅の一室・自然堂で生活を始め、歌会に参加したり、朝帰りしてお龍に怒られたり、巌流島で花火を打ち上げたりしました。伊藤九三は龍馬のパトロンであり、龍馬の定宿となっていました。
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赤間神宮
山口県下関市
龍宮城をイメージさせる朱塗りの水天門が海峡に臨んで立つ。壇之浦の合戦で源氏に敗れ、入水して亡くなった安徳天皇を祀る。天皇陵、平家一門の七盛塚、芳一堂がある。
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極楽寺
山口県下関市
赤間神宮の隣にあり、1863年6月には奇兵隊の陣が置かれました。赤間神宮の隣にあり、伊藤邸に住んだ龍馬とお龍にとっては生活圏にありました。「極楽寺即ち極楽浄土の寺」と紹介された伽藍は空襲で焼けてしまい、現在のものは再建されたものです。
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入江和作邸跡
山口県下関市
慶応元年(1865)閏5月、薩長同盟に向けて桂小五郎と会談するために下関入りした龍馬が最初に訪れた場所。当主の和作は勤王の志士たちをあらゆる面で支援しました。下関市役所から程近くにあります。
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末広稲荷神社
山口県下関市
龍馬や高杉、伊藤博文や山縣有朋たちが遊んだ稲荷町の面影を今に伝える稲荷神社。稲荷町は遊郭発祥の地とも言われ、全国に知られていました。龍馬が朝帰りしたのもここで遊んでいたため。こちらも空襲で焼け、現在は再建された社がひっそりと佇みます。
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幕末維新村
山口県下関市
下関と龍馬や幕末の志士たちを分かりやすく解説した展示施設。注目はこちらに伊藤邸の模型と、龍馬とお龍の棲家「自然堂」が復元されていること!寝るだけとはいえ、その狭さに改めて驚いてしまいます!龍馬ファン必見です!
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巌流島
山口県下関市
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の舞台となった島で、正式名称は船島。島内の展望広場には武蔵と小次郎の像が立ち、人工海浜、多目的広場、遊歩道などが整備されている。
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みもすそ川公園
山口県下関市
海辺に細長く広がる公園からは源平壇之浦合戦の古戦場や関門橋が望め、景色がすばらしい。園内には源義経、平知盛の像、長州砲のレプリカが展示されている。
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長府博物館
山口県下関市
巧山寺に隣接する「下関の歴史と文化」をテーマにした博物館。毛利元就の肖像画や遺墨、毛利秀元の遺品、高杉晋作や乃木将軍の書状など長府の歴史を語る貴重な資料を収蔵。
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功山寺
山口県下関市
鎌倉期創建の禅寺で長府毛利家の菩提寺。幕末に高杉晋作が維新回天の旗揚げをした場所として知られる。純唐様建築の美しさを保つ無彩色の仏殿は国宝に指定されている。
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覚苑寺
山口県下関市
3代毛利藩主綱元が建てた黄檗宗の寺院。明の黄檗建築様式が施されている。和同開珎が作られた跡地に立ち、それにちなみ和銅窯がある。春はサクラ、秋は紅葉の名所。
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三吉慎蔵邸跡
山口県下関市
龍馬の親友であった三吉慎蔵の邸宅跡。慶応元年12月に桂に紹介され共に上京し、寺田屋事件に遭遇します。僅か2年間の交流ながら、龍馬は三吉に心を許し、お龍を託しました。下関滞在の折、龍馬もこの地を訪れたと言われています。※個人宅であり、外観のみの見学となります。見学には十分にお気をつけ下さい。
四国の「坂本龍馬」ゆかりの地(全32件)
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御幸の橋
愛媛県大洲市
河辺村には屋根を付けた8つの橋が点在している。中でも愛媛県有形民俗文化財に指定されている「御幸の橋」は、安永2年に掛けられ、坂本龍馬も脱藩の時に渡ったと言われている。
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中岡慎太郎生家
高知県安芸郡北川村
1838(天保9)年、高知県北川村で生まれ、坂本龍馬とともに維新に功績を残した中岡慎太郎の生家を1967(昭和42)年に復元。入母屋造り茅葺きの家で、中岡慎太郎館に隣接。
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はりまや橋名産センター
高知県高知市
永野蒲鉾店など7軒のみやげ店が集合したみやげものセンター。海産物加工品をはじめ、菓子、民芸品など豊富な品ぞろえ。ほとんどの高知県の名物がここで手に入る。
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龍馬歴史館
高知県香南市
幕末を駆け抜けた風雲児、坂本龍馬の33年の生涯を約180体の蝋人形で綴った施設。龍馬の生誕から龍馬が最期を迎えた近江屋の惨劇までの26シーンをリアルに再現。
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佐川町立青山文庫
高知県高岡郡佐川町
坂本龍馬や中岡慎太郎らとともに明治維新に貢献し、維新後3代目の宮内大臣を11年間務めた田中光顕の寄贈により創設。坂本龍馬、勝海舟、高杉晋作らの遺墨や蔵書を収蔵。
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加茂屋
高知県高知市
坂本龍馬に関するみやげものを扱う店。龍馬のミニチュア像やTシャツ、色紙、湯のみなど、店内は龍馬のグッズでいっぱい。全国から龍馬ファンが訪れる。
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龍馬の生まれたまち記念館
高知県高知市
龍馬誕生地近くの記念館。龍馬の生い立ち、半生や当時の町の様子を映像、音声、模型を交えてわかりやすく紹介。一角には坂本家の離れをイメージした休憩スペースがある。
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黒潮温泉 龍馬の湯
高知県香南市
高知龍馬空港近くのビジネスホテルに隣接する温泉。地下1300mから湧き出るミネラル豊富な湯は、アルカリ性で美肌効果がある。館外の足湯コーナーでも気軽に温泉を楽しめる。
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坂本龍馬像
高知県高知市
龍馬の功績を永く後世に伝えようと建てられた像。和服姿にブーツをはき、右手を懐に入れて、はるか太平洋の彼方を見据えて立つ姿に、維新の志士らしい凛々しさを感じる。
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坂本龍馬記念館
高知県高知市
坂本龍馬に関する資料を一堂に集めた資料館。2階は光ファイバーやグラフィックスを駆使して龍馬の人物像を紹介。地下2階では龍馬書簡など貴重な資料を多数展示。
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坂本龍馬誕生地の碑
高知県高知市
龍馬の誕生地に立つ石碑で、吉田茂元首相の書。上町1丁目交差点の東、旧本丁筋から一本南の通りまでが龍馬の生家とされている。現在、その一部は上町病院となっている。
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日根野道場跡
高知県高知市
龍馬が14〜19歳まで修行したのがこの辺り。付近の石垣が在りし日の風景を彷彿とさせます。すぐそばを流れる鏡川は龍馬幼少の頃、乙女姉さんに水練させられた場所。こちらもお見逃しなく!
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和霊神社
高知県高知市
文久2年(1862)3月23日、脱藩の意を固めた龍馬が詣でた場所で、才谷屋の守護神でもあります。鳥居をくぐると当時の龍馬もここを通ったのだなと、感慨深くなります。ひっそりと佇む趣のある神社です。
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田中良助旧邸資料館
高知県高知市
坂本家の山林を管理する田中良助は龍馬の年の離れた友人とも言える存在。金子2両の借用証文は2人の関係を今に伝えます。龍馬がよく登ったという八畳岩からの眺望は、高知で最も龍馬を感じられる場所かもしれません。
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高知城
高知県高知市
高知市の中央に建つ典型的な平山城。1601(慶長6)年、土佐へ入国した山内一豊が大高坂山に築城を始めた。三層六階の天守閣や追手門、黒鉄門など15の建物が重要文化財。
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坂本家墓所
高知県高知市
上町の北西、通称・丹中山(たんちやま)にあり、龍馬の父・八平直足、兄・権平直方、姉・乙女らが眠ります。ここに来ると5人兄弟の末っ子である龍馬がいかに愛されて育ったのかが分かるような気がしてしまいます。今は整備されて訪れやすくなっています。
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脱藩の道
高知県高岡郡檮原町
1862(文久2)年、脱藩して京へ向かう坂本竜馬ら志士たちが国抜けの際に通った道。太郎川公園から韮ヶ峠までは脱藩の道と呼ばれ、多くの人に歩かれている。
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お龍と君枝像
高知県安芸郡芸西村
龍馬の死後、お龍は妹・君江(海援隊隊士・千屋寅之助・妻)の元に1年ほど身を寄せました。龍馬遺愛のピストルで小鳥を撃ったり、龍馬からの手紙を焼いたりしたと言います。2人が手を振る先には桂浜の龍馬像が!そのお龍もやがて土佐を離れて東京に出ます。
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平井収二郎誕生の地(平井加尾誕生の地)
高知県高知市
龍馬の初恋の人、平井加尾が兄・平井収二郎と共に住んだ場所です。加尾は龍馬の姉・乙女の琴の仲間で藩主・山内容堂の妹・友姫のお付きとして後に上京するも龍馬との交際は続いたと言われています。龍馬もここを訪れたのでしょうか。
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武市半平太旧宅及び墓
高知県高知市
遠縁の龍馬とは「あぎ」(アゴが長いことから)、「あざ」と呼ぶ仲。土佐勤王党盟主として、薩長や京都朝廷に対して影響力は大きかったと言われます。後に参政・吉田東洋暗殺の罪を問われ、切腹しますが、国の史跡となっていることからその重要度が伺われます!
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中岡慎太郎像
高知県室戸市
坂本龍馬とともに維新回天に尽力し、30歳の若さで没した中岡慎太郎。偉業を讃え、1935(昭和10)年に建てられた彼の像は、桂浜の龍馬像とともに、高知の代表的な記念像。
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中岡慎太郎館
高知県安芸郡北川村
坂本龍馬とともに薩長連合を成し遂げ、維新に功績を残して30歳でこの世を去った中岡慎太郎の生涯を、遺品や資料などをもとに紹介する資料館。近隣には慎太郎の生家がある。
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旧立川番所書院
高知県長岡郡大豊町
国の重要文化財で、安政5年(1858)11月、水戸藩士・住谷寅之介が土佐を訪れた際、まだ志士として全国に出る前の龍馬や○○が接待尽くしにした場所として有名です。土佐藩の参勤交代時の本陣としても重要視されていました。当時の雰囲気が感じられます。
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近藤長次郎邸跡
高知県高知市
幼少期から聡明で藩主・山内容堂に認められて名字帯刀。神戸海軍塾、亀山社中で活躍しました。饅頭屋と言われ龍馬に愛されたものの、隊士には不人気だったと言われています。龍馬不在中にイギリス留学計画が発覚し切腹。龍馬はその死を惜しみました。
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後藤象二郎誕生地
高知県高知市
参政・吉田東洋の門人であり、暗殺を指示した武市半平太を断罪にした龍馬の敵役!ですが龍馬とは後に長崎で意気投合し、大政奉還の立役者となりました。龍馬は彼を「おもしろき人」と称しています。板垣退助とは竹馬の友でありました。
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板垣退助誕生地
高知県高知市
参政・吉田東洋の門人で土佐藩の要職に就きました。戊辰戦争時に独断で軍と共に上京し、東山道先鋒総督府参謀として活躍しました。維新後は野に下り自由民権運動を興しました。龍馬の志を実質引き継いだとも言えるのではないでしょうか。
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吉田東洋暗殺之地
高知県高知市
富国強兵論を唱えて藩政改革を大胆に実行するも、尊王攘夷を掲げる土佐勤王党により暗殺されました。結局その仇を甥・後藤象二郎が討ち土佐勤王党は瓦解。しかしその後藤と武市の親友であった龍馬がやがて手を組み時代は大きく動くことになります。
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吉村虎太郎誕生地
高知県高岡郡津野町
年は龍馬よりも2才下ですが、龍馬より先に土佐藩を見限って脱藩した風雲児でした。脱藩した龍馬らは何をしてよいか分からずとりあえず吉村を追ったと言われています。後、天誅組の変にて幕府軍の総攻撃を受け戦死。龍馬はその早すぎる死を惜しみました。
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河田小龍誕生地
高知県高知市
龍馬にとって思想上の最初の先生として知られます。絵師でありながら、帰国したジョン万次郎に聞き覚えした「漂巽紀略」が有名です。龍馬に交易の重要性を教えたものの、龍馬はあまり尊敬していなかったとも言われています。
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ジョン万次郎像
高知県土佐清水市
漁師だった少年時代に漂流してアメリカに渡り、測量や航海術を持ち帰り帰国しました。夜明け前の日本に多大な功績を残した存在半面、生まれてくる時代が早すぎたとも言えます。龍馬とは幕府公武所時代に会ったと言われています。
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岩崎弥太郎銅像
高知県安芸市
岩崎弥太郎生誕150年に安芸市や商工会を中心に企画され、僅か1年で寄付金3000万円を集め、昭和61年に完成。成功して故郷に帰った岩崎弥太郎をイメージしたとか。今、大注目の写真スポットです。
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岩崎弥太郎生家
高知県安芸市
三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の生家。竹垣で囲まれた敷地には、茅葺きの家と土蔵が修復され、土蔵の鬼瓦に三菱のマークの原形となった家紋が残されている。
九州の「坂本龍馬」ゆかりの地(全32件)
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長崎市亀山社中記念館
長崎県長崎市
1865(慶応元)年に坂本龍馬が結成した日本最初の商社「亀山社中」跡で、龍馬が長崎での活動の拠点とした場所に建つ。往時に近い形に改修を行い、2009年8月にオープン。
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龍馬通り
長崎県長崎市
寺町通りから深崇寺と禅林寺の間を抜け、亀山社中跡へと向かう急な勾配の石段。幕末史を探る散策路として、ひそかに人気を呼んでいる通り。
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風頭公園
長崎県長崎市
竜馬通りを上りきった場所に広がる公園。坂本龍馬の像が立つ展望台からは長崎港が望める。公園のそばには龍馬や桂小五郎を写した日本写真の祖、上野彦馬の墓がある。
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福済寺
長崎県長崎市
坂本龍馬とともに逗留したと勝海舟の日記に記された寺。原爆と戦争の犠牲者のためにつくられた地上35mほどの巨大な観音像が立つ。地球自転観測装置「フーコーの振子」がある。
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上野彦馬宅跡
長崎県長崎市
日本初のプロカメラマンとして知られる上野彦馬。この場所は、1862(文久2)年に創設した上野撮影局があったところ。彦馬はここで坂本龍馬を撮影したといわれる。
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龍馬のぶーつ像
長崎県長崎市
龍馬通りの長い階段を昇りきった見晴らしのよい高台に設けられたモニュメント。龍馬が愛用したブーツよりも大きめの銅製で、絶好の記念撮影スポット。
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若宮稲荷神社
長崎県長崎市
緑の木々の中、朱色の鳥居が鮮やかな神社。坂本龍馬ら幕末の志士が参拝したことで知られる。10月14、15日の例大祭には白キツネに扮した氏子が竹ざおの上で「竹ン芸」を奉納。
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玉川亭跡
長崎県長崎市
龍馬通りを下り、寺町通りを越え、中島川に突き当たると、龍馬が土佐藩士佐々木高行とともに、長州の桂小五郎や伊藤俊輔(伊藤博文)と会談した玉川亭跡があります。現在は幼稚園となっていますが、当時は川魚が食べられる料亭として川に面していました。
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犬飼滝
鹿児島県霧島市
霊峰、高千穂峰をバックに流れ落ちる高さ36m、幅18mの滝。かつてこの地に流された和気清麻呂が遊び、坂本龍馬が新婚旅行で訪れた。2kmほどの遊歩道の途中にある。
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坂本龍馬・お龍新婚湯治碑
鹿児島県霧島市
坂本竜馬は日本で最初に新婚旅行をした人物。その旅先として選ばれたのが霧島で、塩浸温泉の一角には龍馬と妻・お龍の像が建てられている。
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亀山社中資料展示場
長崎県長崎市
もともと「亀山社中ば活かす会」が亀山社中跡(現・記念館)で一般公開していたものを展示。龍馬に関する話が聞けたり、写真が撮れたりと龍馬を身近に感じられる施設。海援隊旗の手拭い等オリジナルグッズにも注目です!
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坂本竜馬新婚の旅碑
鹿児島県鹿児島市
寺田屋で襲撃され負傷した龍馬は、傷の療養を兼ねて薩摩に招待されました。小松帯刀、西郷、大久保利通、吉井友実らに引き連れられて、お龍と上陸したのがここ天保山。今では埋め立てられましたが、運河沿いの松林が当時の海岸線を思い起こさせます。
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西郷隆盛生誕地
鹿児島県鹿児島市
1827(文政10)年、西郷が生まれたのがここ。下級藩士が住んだ加治屋町からは、他にも東郷平八郎、山本権兵衛、大山巌、大久保利通など錚々たる人物が輩出します。それを支えたのが薩摩独自の郷中(ごちゅう)教育。近くには学び舎も再現されています。
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西郷南州翁宅地跡
鹿児島県鹿児島市
1865年、1866年に龍馬が薩摩を訪れた際、泊まった西郷の家がここ。雨漏りがひどく、西郷の妻が文句を言っていたというエピソードは有名な話。生誕地の甲突川対岸に位置し、こちらも現在は共研公園となっており、石碑が立てられています。
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小松帯刀邸跡
鹿児島県鹿児島市
1865年の薩摩訪問時、1866年の寺田屋襲撃後と、龍馬が薩摩で最も多く滞在したのがこちら。現在は個人宅であり外観を眺めるのみとなっています。小松は年下ながら家老として西郷や大久保を保護、龍馬の支持者でしたが維新後36歳で病死しています。
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維新ふるさと館
鹿児島県鹿児島市
明治維新にスポットをあてた歴史観光施設。1階は幕末探訪と郷中教育、海洋国家として発展した薩摩の歴史を紹介。地下1階は維新体感ホールを中心に展示1室・展示2室がある。
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鹿児島県歴史資料センター 黎明館
鹿児島県鹿児島市
鶴丸城本丸跡に建つ歴史資料館で、現在でも濠,石垣,石橋などが残り、西南戦争時の銃痕も見ることができます。現在は所蔵(寄託含む)する龍馬関係資料を展示しており、幕末期の鹿児島の歴史が学べます。(展示期間平成22年2月26日から約1年間)
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西郷隆盛銅像
鹿児島県鹿児島市
東京上野の西郷像は着流し姿だが、こちらは1873(明治6)年に行われた陸軍特別大演習のときの軍服姿。台座を含め高さは8m。記念撮影に好適なスポットだ。
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小松帯刀像
鹿児島県鹿児島市
西郷も大久保も、小松なくては活躍できなかったと言われるほどの小松の像は西郷隆盛像と道を挟んで反対側に。龍馬にとって小松は亀山社中の大切なパトロンでした。明治3年僅か36歳で病死。小松がいれば西南戦争もなかったとも言われるほどの人物です。
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西郷南州顕彰館・南州墓地
鹿児島県鹿児島市
1877年(明治10)9月24日、城山で西郷が切腹し、西南戦争は幕を閉じました。この地に幕末に活躍した薩摩の士2023人が眠ります。西郷の左には桐野利秋、右には篠原国幹らが並びます。隣接して西郷南州顕彰館、南州神社があります。
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名勝 仙巌園(磯庭園)
鹿児島県鹿児島市
1658(万治元)年に薩摩藩主島津光久が別邸として造営。通称磯庭園。鹿児島いちばんの名所で、庭園と桜島の展望がすばらしい。近代日本発祥の地としても注目を集める。
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尚古集成館
鹿児島県鹿児島市
江戸末期にあった洋式工場群跡にある博物館。薩摩藩主島津斉彬が欧米列強の植民地政策に危機感を抱き取り組んだ集成館事業の実像とその背景が実感できる。
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浜之市
鹿児島県霧島市
龍馬とお龍が吉井幸輔(友実)に連れられて、鹿児島から霧島に入ったのがここで、遠く高千穂峰を眺めることができます。 龍馬は慶応2年の3月16日〜4月12日まで25日間を霧島で過ごしました。 龍馬とお龍は帰り際にも船待ちのためこの辺りで1泊しているようです。
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西郷どん湯(日当山温泉)
鹿児島県霧島市
今も地元に愛され、「元湯」と呼ばれる日当山最古の自噴泉!当時は地下にありました。 龍馬はこの辺りに行きに1泊、帰りに3泊しています。 後に征韓論で下野した西郷が通ったので西郷どん(せごどん)湯と言われますが龍馬が入った可能性もかなり高いです!
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和気神社
鹿児島県霧島市
奈良時代、天皇の位を窺う道鏡を退けたため、牧園町下中津川に流された和気清麻呂をまつった神社・境内の白いイノシシや、近くにある清麻呂ゆかりの岩風呂も有名。
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犬飼滝
鹿児島県霧島市
霊峰、高千穂峰をバックに流れ落ちる高さ36m、幅18mの滝。かつてこの地に流された和気清麻呂が遊び、坂本龍馬が新婚旅行で訪れた。2kmほどの遊歩道の途中にある。
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硫黄谷温泉
鹿児島県霧島市
龍馬たちが高千穂峰登山前日に宿泊したのがこちら。湯船は現存しないものの源泉は同じ。なにはともあれこのスケール感に圧倒されてください!ホテル内には龍馬の展示スペースやお土産所もあります。
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栄之尾温泉(霧島いわさきホテル)
鹿児島県霧島市
渓谷沿いに8つの湯船が並ぶ秘湯で、島津家当主らが湯治し、小松帯刀が好んだ温泉地です。小松の日記によると龍馬が見舞いに訪れたのは3月28日。温泉も楽しんだことでしょう。現在は緑渓湯苑として、昼は水着で、夜は宿泊者のみ入浴することができます。
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高千穂峰
鹿児島県霧島市
「天孫降臨」の山で龍馬とお龍は3月29日に登山。馬の背越えでお龍の手を引き、ツツジに感動し、山頂で天の逆鉾を引き抜きます。今は高千穂河原まで車で行けますが、当時は硫黄谷温泉から徒歩・・・。当時の人の健脚ぶりに脱帽です!
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霧島神宮
鹿児島県霧島市
龍馬とお龍の二人は高千穂峰登山後に参拝。御神木の大杉を見ました!ちなみに当時の参道は亀石坂。苔むした参道の雰囲気、オススメです!
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華林寺跡
鹿児島県霧島市
霧島神宮の別当寺で、志坊が7つもある大きな寺でした。慶応2年3月29日、高千穂峰に登山した龍馬とお龍が下山して宿泊したのがこちらの宿坊です。明治の廃仏毀釈により徹底的に破壊され、現在は石垣や累代の住職の墓が点在し往時を偲ばせます。
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西郷公園
鹿児島県霧島市
鹿児島空港を下りるとドンと正面にそびえ立つのがこちら。 高さ11m、重さ30tの日本一の人物像です。 細かいことは抜きにして、まずはその圧倒的存在感の前で写真を撮ることをオススメします。 資料展示室もあり、西郷の歴史を学ぶこともできます。