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九戸城跡 つぶやき・クチコミ

エリア
岩手県二戸市
ジャンル
見る - 史跡・建造物 - 城・城址

馬淵川、白鳥川、猫渕川の3つの河川に囲まれた広大な城跡。豊臣秀吉軍の奥州再仕置き最後の合戦場で、秀吉の天下統一が完了した歴史的にも重要な史跡だ。

九戸城跡のつぶやき

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九戸城跡のクチコミ

三戸城跡

【三戸城跡】青森県三戸郡三戸町梅内 2008/09/06登城(No137)  南部氏の歴史は古く、甲斐国に所領を持つ南部三郎光行が文治5年(1189)奥州合戦に従軍したのが始まりとされる。従三位陸奥守として多賀城(宮城県多賀城市)に下向した北畠顕家(きたばたけあきいえ)に、建武元年(1334)南部師行(もろゆき)が北奥諸郡の奉行に任じられ所領を得ていく。師行は八戸氏(根城南部氏)として宗家の位置をしめていた。  三戸、八戸、七戸、一戸、九戸など多くの一族から構成されていたが、戦国時代には聖寿寺館(しょうじゅじたて:青森県南部町)を本拠とした三戸南部氏が台頭、現在の青森県西部、秋田県鹿角、盛岡あたりまで勢力を拡大し、宗家となっていた。  24代晴政(はるまさ)が天文8年(1539)に三戸城を築いて本拠とした。馬淵川と熊原川を天然の堀とし、独立した台地(標高120m)上に曲輪を配した連郭式山城で、東北から西南方向に約1.5km、北西から南東方向に約400mの規模。三戸町立歴史民俗資料館(三戸城本丸跡にある)の図によると、西南の綱御門から登ると、階段上に重臣屋敷の曲輪を配し、大御門から本丸に入り、東北側が最高所であり城の中心となっている。土塁中心で本丸と綱御門は石垣で囲っていたようだ。  天正10年(1582)晴政・晴継が死去、跡目をめぐり九戸政実(まさざね)派と晴政の叔父高信派が対立した。高信の息子田子信直(南部信直)が三戸南部氏(宗家)の家督を継ぎ26代当主となり三戸城へ入る。天正18年(1590)小田原に信直が参陣して南部内7郡の所領を安堵された。検地や刀狩りなど豊臣政策を行う南部信直に反発した、九戸派は天正19年(1591)反乱を起こすが、信直は豊臣に支援を要請、6万が九戸城(クチコミは九戸城跡)を囲んだ。平定後、三戸城には3層3階の御三階櫓があがったとされる。  だがその後、信直は九戸城を福岡城と改め移り、さらに慶長2年(1597)に不来方(盛岡:クチコミは盛岡城跡)に築城を開始、居を移した。三戸城は廃城とはならず、その後も補修などは続いたとされる。  現在、本丸の角櫓を復元した。2008/09/06に登城したが復元した3層の角櫓には入れなかった。地震で石垣が破損した模様で2008年中は閉鎖のようだ。歴史民俗資料館は入れます。古い石垣も散見される。ただ眺望は木々が茂り悪い。JR三戸駅の線橋から台地が一望できます。 <交通>JR三戸駅から本丸までタクシー8分\1360 <写真左>再建・綱御門 <写真中>復元・角櫓 <写真右>三戸城昔の図:案内板より

kenken0418 さん (投稿日 08-11-10)

九戸城跡

【九戸城跡】岩手県二戸市福岡城ノ内 2008/09/06登城(No138)  南部一族の九戸氏、光正が明応年間(1492〜1501)に築城したとされる。馬渊川と白鳥川との合流点の台地上に、空堀で巧みに曲輪を配した平山城。高所の本丸を中心に東に二の丸、若狹館。南に松の丸、東北に石沢館、西に三の丸などの曲輪があった。二の丸は本丸の南から東へ逆L字型をしていて、東南に大手門があった。南から北へつづく二の丸の中に搦手門があり、その西の直線上に本丸追手門があり、本丸中ほどには本丸虎口があった。  天正8年(1580)三戸城主南部宗家24代晴政(はるまさ)が死去、晩年まで嫡男がなく、叔父高信の息子・田子信直(たっこのぶなお)を後継者に指名したが、男子(25代晴継)誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回した。晴政の死後、跡目をめぐり、信直派と晴継擁護の九戸派とが対立した。晴継は13才で謎の死を遂げ、混迷の中、天正10年(1582)信直が南部26代目を継いだ。  天正18年(1590)信直は小田原に参陣、豊臣秀吉から南部内7郡を安堵され、豊臣の一大名として認められた。検地、刀狩りなど豊臣政策を行う信直に対して、もともと宗家の家臣ではないとの思いもあって、南部一族のうち九戸政実(まさざね)を中心に天正19年(1591)3月蜂起した。また豊臣の奥州仕置に不満の分子も蜂起している。  南部の精鋭であった九戸勢は強く、信直は苦戦、援軍を求め、9月に豊臣秀次を総大将とし、蒲生氏郷や浅野長政を主力とする6万が城を囲んだ、九戸勢は5千。しかし政実の九戸城は防御力抜群、兵も強く、豊臣軍が苦戦、疲労困憊だった。豊臣軍は謀略により開城させ、悉く撫で斬りし、とらえた政実一族は処刑した。その後、信直は九戸城を改修、福岡城として三戸(クチコミは三戸城跡)から移った。今に残る石垣はこの時の改修のものといわれる。九戸城では板葺きの櫓があったとされるが、福岡城では天守や櫓があったかは不明としている。信直の子、27代利直が盛岡(クチコミは盛岡城跡)に本拠を移した寛永13年(1636)に廃城となった。  現在、本丸、二の丸、北側の崖などが残っている。この時の奥州にあって空堀、曲輪など近代的な城だったことがわかる。本丸、二の丸だけなら30分くらいで見学できる。城の周りを廻るには断崖などあり相当な覚悟と時間がいるようだ。なお、高橋克彦著「天を衝く」が九戸政実のお話、ご一読を。 <交通>JR二戸駅からタクシー\820 <写真左>広大な二の丸から。空堀、高くなっている所が本丸 <写真中>本丸虎口跡、右から入って左が本丸 <写真右>九戸城模型:現地案内

kenken0418 さん (投稿日 08-11-03)

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