楽天グループ関連
補助メニュー
主なカテゴリー

たびノートTOP > 広島県の観光スポット > 倉敷・尾道の観光スポット > 倉敷・尾道の「歴史」観光スポット > 福山城 > つぶやき・クチコミ

福山城 つぶやき・クチコミ

エリア
広島県福山市
ジャンル
見る - 史跡・建造物 - 城・城址

徳川家康のいとこの初代福山藩主、水野勝成が元和8(1622)年に築城。天守閣の内部は福山の歴史を紹介する博物館になっている。水野家、阿部家に関する書画や甲冑、古代から中世の資料を展示。

福山城のつぶやき

「福山城」でつぶやかれたTwitterのツイートを掲載しています。

福山城のクチコミ

福山城

JR福山駅のすぐ横 1619年に徳川家康の従兄弟、水野勝成が建てたお城です。 一度 1945年(昭和20年)8月の空襲で 天守閣と御湯殿は焼けてしまったけれど 1966年(昭和41年)に 天守閣と御湯殿、月見櫓が復原されました。

大納言7892 さん (投稿日 11-01-31)

福山城跡

【福山城跡】広島県福山市 2005/09/09登城(No28)  徳川家康の従兄弟・水野勝成が備後、備中に10万石を与えられて入封、元和6年(1620)から8年にかけ築城した。伏見城から資材が転用され、伏見櫓や月見櫓、御殿、鉄門、大手門などが造られた。10万石にしては巨城で5層の天守、22の櫓があったと言う。  標高20mほどの丘を削った本丸を中心に二の丸、三の丸を配し複雑な屈曲した長大な多聞櫓と石垣で囲んで、それらを内堀と外堀で囲んであった。南の高石垣はみごとだ。ただ北側には堀も薄く石垣もなく弱点のままだった。弱点からの砲撃を補うためか天守の北面は鉄板が張られていたと言われ黒く、白漆喰とは対照的だった。築城には幕府も大金を貸与し、西国外様大名への抑えとしての福山城を重要視した。干潟だった南は干拓し城下町とされ、福山と名づけられた。  幕末には安倍家だったが慶応4年(1868)1月築城以来初めて長州軍の攻撃を受け(北側の弱点をつかれたとされる)恭順した。明治6年(1873)廃城とされたが、天守、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿、鐘櫓、涼櫓は残った。堀などは山陽鉄道敷設や工場建設などで埋められた。国宝だった天守は昭和20年(1945)8月の米軍大空襲で焼失、残っていた城下町も焼けた。  復興天守が昭和41年(1966)にコンクリで造られた。内部は福山城博物館となっており、前の天守とは姿が違っているので復元ではなく復興天守と呼ぶそうだ。重文として3層3階の伏見櫓、筋鉄御門がある。JR福山駅南口に、かつての外堀に面した石垣遺構がみつかり「水辺公園プロジェクト」として進行している、期待したい。 <交通>JR福山駅北口からすぐ。新幹線・新大阪行ホームからもよくみえる。

kenken0418 さん (投稿日 08-04-02)

ふくやま美術館

福山城のよこ、 文化施設がたくさん立ち並ぶ 文化ゾーンの中にあります 美術館から眺める 素敵な庭園が見ものです。 ぜひ ゆっくりしに行ってみてください

リンコ4264 さん (投稿日 07-04-22)

掲載情報の一部の著作権は提供元企業等に帰属します。 Copyright(C)2024 Shobunsha Publications,Inc. All rights reserved.