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長崎県の「長崎駅」に関する観光スポット131件を紹介!
「長崎から地球、そして宇宙へ」がテーマ。リニューアルしたスペースシアターでは、迫力あるデジタル映像でプラネタリウムや全天周映画を上映。長崎の自然や地球、宇宙を知る展示ゾーンもある。
慶応元(1865)年に坂本龍馬が結成した日本初といわれる商社「亀山社中」跡で、龍馬が長崎での活動の拠点とした場所に建つ。往時に近い形に改修を行い、館内には龍馬関連資料などを展示。
唐人屋敷とは長崎の市内に居住していたすべての中国人を収容するために、元禄2(1689)年に江戸幕府によりつくられたもの。土神堂など4つの堂が往時の雰囲気をしのばせる。
フランス人フューレ、プチジャン両神父によって元治元(1864)年に創建。現存するものでは日本最古の木造ゴシック様式の教会で世界史上有名な「信徒発見」の舞台でもある。
原爆の後遺症に苦しみつつも被爆者の救護に尽力し、多くの名著を残した永井博士の家。記念館は、博士が自宅横につくった子どものための図書室が前身だ。館内には博士の遺品を展示する。
承応3(1654)年に唐通事の林守でんによって架けられた橋。側壁石の加工法がめずらしく、長い年月を経た現在も頑丈に架橋当時のアーチの石組みを保っている。
「新日本画」と呼ばれる画法を確立した長崎出身の須加五々道氏の作品を展示。水墨画を基調に西洋美術の遠近法を融合させた独自の画法は、繊細で情緒豊かだ。
画家のヤマサキユズル氏のアトリエ兼ギャラリー。展示作品はアクリル水彩で描いた月の絵が中心で、不定期に企画展を開催する。絵画やオリジナルポストカード、手作り小物なども販売している。
名妓愛八をはじめ、多くの遊女が訪れたという料亭花月の裏門近くにある天満宮。丸山町の氏神で、心身の悩みを身代わりになって助けてくれるといわれる。
明治26(1893)年、ときの清朝政府の提唱で華僑が建てたもので、中国国外で唯一中国人によって建立された孔子廟。美しい色彩の建物は華南と華北の建築様式が混ざり合っている。
明治37(1904)年に建てられたもので、長崎市内に現存する石造りの洋館のなかでは最大級。2階の一部と3階では歴史資料を展示、1階は多目的ホールとして活用されている。
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている南山手地区の洋館。旧雨森邸を移築して、旧居留地の模型などの展示や有料の研修室として活用している。
昔、長崎の人は東洋人以外の外国人をオランダさんと呼び、居留地の坂をすべてオランダ坂と呼んだ。そのなかでもっとも有名なのが、活水女子大へと続く風情あるこの石畳の坂だ。
昭和20(1945)年に投下された原子爆弾により壊滅的な被害を受けた長崎。資料館では被爆写真や資料などを展示し、被爆の実相と平和の尊さを伝えている。
長崎市内に数ある石橋の一つで、明暦3(1657)年に高一覧が架橋。現在の橋は、昭和61(1986)年に中国福州市産の花崗岩を使って復元したもの。夜はライトアップされる。
延宝7(1679)年の架橋当時、河畔に桃の木があったことから名が付く。唐船から降ろした荷を小舟でこのあたりまで運んできていた。橋の両脇に唐船安全祈願塔常夜燈が立つ。
昔、市中引きまわしの死刑囚が必ず渡らなければならなかった石橋。橋の名は、囚人たちが来世は極楽に生まれるようにと架設の翌年に橋際に阿弥陀堂が建てられたことに由来。
国道202号沿いにある琴海地域の特産品販売所。店頭には農家から毎朝届けられる色鮮やかな野菜や果物がずらり。季節によって手製のジャムやかんころ餅などを販売している。
長崎出身の歌手、さだまさしの呼びかけにより、「ナガサキピースフィア 貝の火運動」の募金活動で建てられた。写真やパネル展示を通じ、平和を呼びかけている。
全国から集めた貴重なべっ甲細工の作品を展示している。建物は国の重要文化財に指定された「旧長崎税関下り松派出所」を改装したもの。
緑深い山奥の廃校を改修した建物内には、アナログレコード、蓄音機、往年の名機のオーディオセットがところ狭しと並ぶ。すべて自分の手で針を落として聴くことができる。
龍馬通りを下り、寺町通りを越え、中島川に突き当たると、龍馬が土佐藩士佐々木高行とともに、長州の桂小五郎や伊藤俊輔(伊藤博文)と会談した玉川亭跡があります。現在は幼稚園となっていますが、当時は川魚が食べられる料亭として川に面していました。
藩命にて武器や軍艦の買い付けに長崎へとやってきた土佐藩参政・後藤象二郎の居宅跡です。後に岩崎弥太郎が譲り受けました。現在のテレビ長崎の正面玄関左横に碑が立っています。
豪商・小曽根家の邸宅跡。長男・乾堂や海援隊士でもあった四男・英四郎は金銭的に龍馬や社中をバックカップ。後の海援隊本部はここ!龍馬の幼馴染・饅頭屋こと近藤長次郎が密航未遂の罪で切腹したのもここです。現在は長崎地方法務局が立ちます。
安政2年(1855年)オランダの協力を得て幕府が長崎奉行所・西役所内に創設した海軍養成学校跡です。1859年に閉鎖されるまで勝や榎本武明らを輩出しました。ちなみに観光丸が練習船として使われたのはここ。現在は長崎県庁となっており、碑のみが残ります。
土佐藩が1866年に設置した長崎出張所。後藤より岩崎弥太郎が運営を任され、武器輸入などを行いました。弥太郎は同時に海援隊の資金管理も担当しました。ちなみに実際の土佐商会はこちらの交差点付近。鐵橋の手前に碑が建っています。
薩摩藩はここを拠点に亀山社中への援助を行いました。龍馬も幾度と通ったことでしょう。薩長同盟締結時には秘かに長崎に入った長州藩の伊藤博文や井上馨などもこちらにかくまわれていました。今はほぼ同じ敷地に三菱UFJ信託銀行が建っています。
初心者には龍馬が分かりやすく、ファンには清風亭の調度品が楽しめる展示施設。期間限定ですがかなり楽しめます!1Fのショップには龍馬グッズが満載。お土産は是非こちらがオススメ。またカフェ機能も併設しており、龍馬が愛した珈琲ほかが頂けます。
龍馬が盟友・武市半平太を殺した仇敵・土佐藩参政の後藤象二郎と初会談を行った料亭跡。利害関係と共に意気投合した2人から大政奉還へと繋がっていきます。長年場所が不明とされていましたが2009年に特定されました。こちらも当時を偲ぶのはやや困難なスポットです。
幕末から明治にかけて日本茶の輸出で一代を築いた女傑「大浦慶」の住居跡。龍馬や陸奥宗光を始めとする志士たちの経済的な援助も行っていました。当時は426坪の広大な敷地で長崎を代表する庭園を擁しました。晩年は不遇でしたが、死の直前に明治政府より功労褒賞が贈られました。
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